君が見つめた海
〜第一章〜




『わたくしを海に連れて行って・・・頂けますか?』
彼女の、最後のわがまま。





薙刀の素振りを続けて数十分。
やがて日が真上に位置し、日光はワタクシを囲む木々に遮られなくなった、
手の甲に、春の暖かな日が落ちるのを合図に、ワタクシは鍛錬を止め、タオルで汗を拭く。
其れはワタクシが日本に来てから、三度目に迎える春でした。
「わんわんっ!」
大型犬の低い鳴き声が、木々の間から聞こえた。
「・・・鞠絵ちゃん?」
鳴き声の発した犬ではなく、其の飼い主の名前を呼ぶ。
すると、女神のような微笑みを絶やさずに、其の人はワタクシの前に現れる。
天使よりも、女神よりも、ワタクシには大切な人。
「お疲れ様です」
鞠絵ちゃんはワタクシに飲み物の入ったボトルを差し出してくる。
「有難う御座います」
其れを受け取りながら、御礼を云う。
そんな敬語で構成される掛け合いは周囲から見れば堅苦しいのかもしれない。
でも、ワタクシには其れが毎日の一番最初にある楽しみでもある。
ストローに口を付けて啜ると、其れを飲み物が昇ってきた。
其れが運動で熱く乾いた口内を冷やす。
やがて、甘い蜂蜜と檸檬の味が広り、液体を飲み込む。
「美味しい・・・ですか?」
少し不安げに問う鞠絵ちゃんに、ワタクシは当たり前のように答える。
「ええ、勿論ですわ」
すると、鞠絵ちゃんは嬉しそうに微笑む。
昔にも・・・と云っても二週間ほど前だが、一度同じ物を作ってくれた事があった。
其れを飲んだ時、ワタクシはこう云ったのを憶えている。
『また、作ってくださいますか?』
思えば其の時以外にこう云う風に云った事は無かったかもしれない。
だから、特別な物だと察してくれたのだろう。
正直なところワタクシは此の飲み物が一番好きだった。
世の中の、どんな食べ物や飲み物よりも・・・
『此の』とは、今口にした飲み物だけではない。
鞠絵ちゃんの手製の物全てに対してだ。
最も、其れから今まで様々な事で鞠絵ちゃんに感謝している。
・・・幾ら感謝しても物足りない。
あの時・・・
「・・・如何しました?」
鞠絵ちゃんが、先程の私の答えを聞いた時の表情のまま、問う。
「いえ、なんでも・・・御座いませんわ」
心配させないように微笑みながら、首を左右に小さく振る。
「そう・・・ですか・・・」
ワタクシの答えに少し満足していない様子の鞠絵ちゃんが小さく、あ、と聲を漏らす。
「忘れてしまうところだったわ。えっと・・・昼食の準備が出来ましたよ」
「ええ、分かりました。あの・・・直ぐに片付けますから、待っていて頂いても良いでしょうか?」
其の問いに、鞠絵ちゃんは頷く。
ワタクシは、そんな時間になっていたと云う事に全く気付かなかった。
如何やら、鍛錬に対して集中し過ぎていたようだ。
・・・そうなったのも、鞠絵ちゃんのおかげだった。
鞠絵ちゃんが呼びに来なければ、何時まで続けていたのだろうか・・・?
兎にも角にも、ワタクシは薙刀を三つに折り、薄い紫の布製の袋に仕舞う。
そして思う。
良く考えれば、日が真上に出た時に気付いただろう、と。
集中するのも良いが、冷静に考える必要もあるのかもしれない・・・
そう思った時、聞こえた。
『間違えないで・・・下さいね?』
・・・分かっていますわ。
もう・・・間違えませんから。
振り向けば、前と同じように鞠絵ちゃんは待っていた。





・・・ワタクシが武道を始めた切っ掛けは、人を守る力を得る為だった。
勿論、自他を問わずに全てを、なんて我儘を云うつもりは無い。
でも・・・せめて自分の手の届く範囲だけでも、守りたい。
そう思った理由は・・・悲しいが忘れてしまった。
もしかしたら、其れが最も大切な事だったのかも知れない。
でも・・・やはり思い出せない。
無力だったが為に、失ったものがあった筈なのに・・・悲しかった筈なのに・・・
其処だけがポッカリと穴の開いてしまったように抜け落ちているのだ。
ただ怖くて、思い出すのを拒んでいるだけかも知れないけれど・・・
・・・周囲の人間を守る力を得たいと云う考えが否定されたのは、去年の春の事だ。
丁度、今から一年程前。
ワタクシの誕生日の頃。
否定された事が、こんなにも清々しかった事は無い。
今こうして、鞠絵ちゃんと肩を並べて笑えるから。
でももし、鞠絵ちゃんと家族でなかったのなら・・・笑えなくなっていたかもしれない。
そう思うと、当たり前が恐ろしい。
今の倖せが貴すぎて、其れが・・・怖い。
『もっと教えてください。貴女の事を・・・教えてください』
「鞠絵ちゃん。ちょっと・・・宜しいでしょうか?」
立ち止まり、彼女を呼び止める。
「はい・・・なんですか?」
そして、自分が何を云おうとしたのか、分からず直ぐには答えられなかった。
其れ以前に、何かを伝える為に呼び止めたのかさえ、分からない。
でも・・・
『殆ど・・・諦めてしまっていますけど・・・ね・・・』
「昼食の後・・・ワタクシの為に少し空けておいて頂けないでしょうか?」
彼女と、もっと一緒に居たい。
其の願いは多分、終わりを迎えない。
だから、そう口にした。
彼女はほんの少しだけ驚いた表情をする。
ワタクシが我儘を云ったのが、珍しかったらしい。
そう、此れで二回目。
「ええ、勿論良いですよ」
彼女の表情は何時しか微笑に変わり、ワタクシを真っ直ぐに見据えていた。
「有難う・・・・御座います」
深く御辞儀をし、心底感謝の気持ちを表す。
・・・・・・何故・・・?
其の時、突如浮かぶ疑問。
・・・何故なのだろうか。
でも、ワタクシは笑っている。
表面だけの其れに、彼女は気付いているだろうか・・・
分からない。
自分の分からない自分の事を、彼女が分かる筈が無い。
でも・・・もしかしたら・・・
自分の、ある事に対して疑問を抱える事になったのは、此の時、此の瞬間から。
「玄関で良いですよね?」
鞠絵ちゃんの聲にハッとなり、現実に意識は戻された。
気が付けば光は何にも遮られずに、ワタクシ達を照らしている。
林を出たらしい。
日光が目に入り、眩しい。
「・・・え?」
先程鼓膜を振動させた言葉を認識し、そして改めて問う。
「あ、その・・・昼食後に落ち合う場所です」
ああ、と納得し、しかし続けて二度目の質問をする。
「昼食後直ぐに、では・・・・・・」
云い掛けて、ふと止める。
少しでも・・・そう、少しでも多くの時間を・・・
何故ワタクシはそう思うのでしょうか・・・
「食事後はお薬を飲まないといけなので・・・」
黙り込んだワタクシに気付いたのか気付かないのか、鞠絵ちゃんは言葉を察してそう云った。
其れも、自分を責めるような表情で。
彼女が病気に対して劣等感を抱いているのは勿論知っている。
たとえ他の姉妹には、平気だ、と・・・大丈夫だ、と云っていても、ワタクシだけに教えてくれた。
自分自身の躰への不安と恐怖。
日に日に膨れ上がってくる其れに、泪を流した事。
其れなのに・・・
意味の無い欲の所為で彼女を悲しませたと云う事実は、耐え難く辛かった。
一瞬自責し、そして其れだけでは其れこそ無意味なのを悟る。
何時しかワタクシ達は家の玄関の扉の前まで来ていた。
「わ、分かりました」
雰囲気を誤魔化す為に、逃げる為に、反射的に頷く。
其れはスタートと同様の意。
扉を開く。
此の家は十二人の姉妹全員が住んでいる家とは別で、ワタクシの所有物。
勿論ワタクシだけではなく、鞠絵ちゃんも咲耶ちゃんも、各々の一軒家を持っている。
ただ、一人になれる空間が在ると云うだけで、出入りは持ち主の許可を得れば自由だ。
証拠に、衛ちゃんと咲耶ちゃんはほぼ勝手にお互いの家を行き来している。
鞠絵ちゃんはワタクシに食事を作りたいと云う理由で、此の家に来ていた。
其れも・・・毎日。
情けないが、有難くて何と云えば良いのか・・・分からない。
兎にも角にも、そして今に至る。
ワタクシ達は同時玄関へ踏み入れた。
「ご飯をよそって並べてきますから、ミカエルの首輪の紐を外して置いてもらえますか?」
簡単な願いに、軽く頷く。
ショートブーツを焦ったように脱いで、律儀に揃え、鞠絵ちゃんは先に家に上がる。
「其れでは・・・」
昼食を食べるのだから、数分も待たずに直ぐに逢う筈なのに鞠絵ちゃんはそう云った。
「・・・ええ」
ワタクシが返事をしたのを確認すると同時に微笑み、リビングへと消えていった。
一瞬呆け、直ぐにミカエルの首輪の紐を外しながら、先程の彼女を思い浮かべる。
・・・妹達と接している時、彼女はとても大人びている。
でも、先程の手を小さく振る姿が大人ではない彼女を表していた。
紐が外れ、ミカエルは飛び跳ねながら鞠絵ちゃんの居るリビングへと駆けて行った。
ワタクシは立ち上がり、自分の手の平を見つめる。
そう・・・まだ、ワタクシ達は発展途中。
だから・・・・・・そう・・・だから、一緒に居たい。
其れはおかしくない。
だけど、違う。
今求めている物とは違う。
「春歌ちゃん?」
ミカエルの後にワタクシがついて来ないのを心配したのか、遠くで鞠絵ちゃんが呼んでいた。
一度視線を手から外し、もう一度其処へやる。
そして一息。
「今・・・行きますわ!」
彼女の聲を聞ければ、そんな事は・・・悩みなんて如何でも良いような気が・・・する。
見つめていた手をギュッと握り締め、ワタクシは直ぐにリビングまで行き、扉を開く。
其処は日本に来てから見慣れたリビング。
鞠絵ちゃんが立っている状態も、見慣れた。
其れは嬉しい事なのか、勿体無い事なのか分からないが、分かるのは倖せだという事。
肉じゃがを嗅覚で感じながら、ワタクシは昼食を食卓へ並べる鞠絵ちゃんの姿を見つめる。
母と似た面影を感じながら、其れとは明らかに違う一面を思い、複雑な心境になった。
「やっと来ましたね。遅いですよ」
振り返り、微笑。
其の姿の後ろには、綺麗に並べられた昼食が視える。
「申し訳御座いません」
ワタクシが真顔でそう謝罪したのが、鞠絵ちゃんは可笑しかったらしい。
微笑ったまま鞠絵ちゃんは椅子を引き、手招きをして誘う。
其れは習慣の一部になっていて、ワタクシは何の躊躇いも無く其処に座る。
すると、鞠絵ちゃんは向かい側の椅子に座る。
拝むように両手を合わせ、その上に黒のお箸を乗せる。
其の時、全ての料理の匂いが混ざり合い、何とも云えない位其れが家庭的な匂いだと感じる。
一息。
「「いただきます」」
目配せも何も無くても、聲は揃った。
そう云えば、咲耶ちゃんと衛ちゃんもそうでしたでしょうか・・・
あの二人は他の誰からも、倖せ其の物に見える。
憧れていた。
ワタクシも、鞠絵ちゃんも、他の姉妹も。
でも今は其の二人に勝るとも劣らない倖せの中に居ると実感出来る。
鞠絵ちゃんが居るから。
ワタクシは鞠絵ちゃんの方をチラッと見た。
其れに気付いた鞠絵ちゃんは微笑みを見せる。
本当に・・・鞠絵ちゃんには笑顔が似合いますわね・・・
ワタクシも同じ物を、返した。





昼食後、ワタクシは寝室へ行き、白い和服から洋服へ着替えた。
勿論、汗に濡れた下着も変えた。
欲を云えばお風呂に入る時間が欲しかったが、濡らしたタオルで躰を拭く事代用する。
そして部屋を出る間際に髪飾りをシンプルな紺のリボンから、紺色の物に変える。
此の髪飾りは初めて四葉ちゃんと出逢った時に、頂いた物。
フフッ・・・四葉ちゃんは其の時、楽しみにしている、って凄く急いでいましたね。
でも、ワタクシも今なら其の気持ちが分かるような気がします。
素晴らしい姉妹達と・・・鞠絵ちゃんと出逢える事を知っていたら・・・
鏡を一目し、おかしなところが無いか確認してから改めて部屋を出て玄関に向かう。
其処にはまだ鞠絵ちゃんは来ていなかったが、ミカエルが待っていた。
しかし、態々客間を覗いてまで何をしているか確認するつもりは無い。
編み上げブーツを履き、少し大きめな巾着袋を手に下げ、全ての準備をし終える。
ミカエルも一緒に出掛けるのかは鞠絵ちゃんの判断によるので、勝手に紐をつけたりはしない。
綺麗な毛並みを流れに沿って撫でる。
するとミカエルは甘えるように、懐に潜り込んで来た。
ミカエルは・・・何時から鞠絵ちゃんと一緒に居るのでしょう・・・
少なくとも、ワタクシが日本に来る前から。
少し前に鞠絵ちゃんがしてくれた子供の頃の話の中でも出てきた。
ミカエルだけではない。
咲耶ちゃんも、千影ちゃんも、衛ちゃんも、花穂ちゃんも、白雪ちゃんも、鈴凛ちゃんも・・・・・・
家族の中で最も年少の雛子ちゃんでさえ、ワタクシよりも長く鞠絵ちゃんと接している。
でも・・・ワタクシは他の何でもなく、鞠絵ちゃんを大切に思う。
誰よりも鞠絵ちゃんの事を・・・
たった一度だけ鞠絵ちゃんに伝えた思い。
其れだけは・・・変わらない。
・・・ずっと。
「お待たせしました」
突然背後から聞こえた、待ち侘びていた聲に振り返る。
鞠絵ちゃんと、濃い碧の首輪と紐に繋がれたミカエルだった。
最も、ワタクシと其の一人と一匹以外に此処には誰も居ないので、当たり前だが。
抹茶色のロングスカートと、左右に小さなスリットの入った焦げ茶のスーツを着こなしていた。
正直、似合うと思う。
其れが自分の為に着てくれた服装だと思うと、嬉しくなった。
そして其れを噛み締めるように大きく息を吸い、本題に入る。
「えっと・・・もう分かっていますよね。何処かに出掛けたいのですが・・・宜しいですか?」
すると、鞠絵ちゃんは微笑った。
何処が可笑しかったのか分からず、思わず問いを投げ掛けそうになる。
「貴女が望んだから作った、貴女の為の時間ですよ?」
鞠絵ちゃんは試すように云う。
もし其の時の表情が微笑みではなかったら、ワタクシは意味を正しく認識できなかったと思う。
其れでも、如何返せば良いのか困った。
表情に出たのか、鞠絵ちゃんは私の其れを見て口元を変えずに眉尻を下げる。
苦笑、と判断出来た。
足元では、ミカエルがワタクシのロングスカートにじゃれ付きながら、見上げていた。
「特に用事もありませんでしたし、暇でしたから・・・気にしないで」
其の言葉を聞いた瞬間、ふっと自分の表情が緩むのが分かった。
「有難う」
鞠絵ちゃんの口調が少し砕けた感じになったので、ワタクシも合わせてそうする。
こんな雰囲気は、二人の時しか味わえない。
他の姉妹と居る時は、お互いが其々お姉さんを演じていた。
もうそんな事をしなくても、彼女達に心配なんて無い事は知っている。
でも、慣れとは恐ろしい物だ。
鞠絵ちゃんと親しくなってからも、敬語での会話は数ヶ月間続いた。
何時だったか、鞠絵ちゃんから云い出して来た。
『もう、止めましょう』
其の日以来、意識的に演じる事を止めた。
勿論全く敬語が含まれていない訳ではない。
最小限の敬語は存在している。
でも、其の時の癖はまだ抜けず、気付かない内に完全な敬語になっているのだ。
そんな時は、どちらか一方が敬語を止めれば、片方も止める。
其れで良いと思う。
相手の言葉が敬語で無くなったのが分かれば、此方もそうする。
相手がそうしてくれると、自分を見てくれていると分かるから・・・
其れは暗黙の了解だった。
改めて思えば、其の存在は自分自身にも暗黙になっている事に気付く。
其れでも、在るだけでワタクシと鞠絵ちゃんの間柄が自分に証明出来、とても誇らしく思う。
「良いですね、こう云うの」
徐に鞠絵ちゃんは云った。
一瞬、驚きに目を丸くした。
心を読まれたような感覚になる。
「フフッ・・・同感ですわ」
皆には大切な人が居る。
ワタクシの其れは、目の前の彼女。
先程まで考えていたのは他の姉妹に対する嫉妬・・・?
思わず心内だけで自嘲の笑みを作った。
自分を信じなければいけませんわね。
そうでしょ?
・・・鞠絵ちゃん。





家を出て、少し広めの中庭を抜ければ、アスファルトの道路に出る。
此処からは、ワタクシの家を挟んで反対側に先程鍛錬をしていた林が位置する。
真昼は過ぎたとて、ほぼ真上に位置する太陽からの光は照り返しがきつい。
春の中旬だが、今年は特に気温が高く、其れもあって鞠絵ちゃんの躰の調子が気になった。
「大丈夫ですか?」
返事は分かっている。
「ええ、今は全然大丈夫ですよ」
彼女が心配の言葉に対して、其れ以外の答えを返した事は無い。
だけど・・・其の時の言葉を疑えば良かった。
自分の背中を汗が伝うのに、鞠絵ちゃんがそうでない筈は無いと考えるのが当然だったのだろう。
・・・普通だったのだろう。
ただ其の時は、今は、と云うフレーズに切なさを感じただけだった。
「そうですか・・・でも、本当に辛い時、無理はしないでくださいましね?」
「ええ、分かってますよ。ところで、何処へ行くの?」
十字路に差し掛かった時、話が変わった。
少し気まずい・・・いえ、むしろ終わりの無かった会話が姿を消し、正直助かる。
そして、数秒考え・・・
「商店街で一緒にお買い物を致しませんか?今晩は鞠絵ちゃんと一緒に夕食を作りたいので・・・」
答えとして出た言葉は其れだった。
「其れじゃ・・・何を作るか決めないといけないわね。何が良いですか?」
鞠絵ちゃんは商店街の方向に曲がりながら問う。
「ええと・・・ワタクシは・・・鞠絵ちゃんのお好みで良いですわ」
すると、鞠絵ちゃんは予想外の答えを聞いたかのように、少し驚いていた。
う〜ん、と顎に手を当てて唸る。
「困ってしまいましたね・・・わたくしは春歌ちゃんの好きな物を作ろうと思っていたのに・・・」
鞠絵ちゃんは、ショボン、と本当に困ったように、そして残念そうに考え込む。
自分が悪いのかと思い、少し焦った。
別に何方でも・・・いや、そもそも悪い物なんて無かったのだろうが。
「そ、其れでは・・・そう、ですね・・・」
本気で言葉を捜した。
頭に浮かぶのは、ご飯、お味噌汁、お漬物、そして肉じゃが。
和食の基本的な物だった。
其れも先程の朝食の献立其のまま。
「・・・・・・・・・」
「おでんなんて如何でしょう?」
言葉を続けられなくなったワタクシを、鞠絵ちゃんはフォローしてくれた。
「ええ、勿論ですわ。そう云えば・・・鞠絵ちゃんはおでんの玉子が好きだったのでしたね」
「憶えていてくれたのですか・・・?あ、其の・・・少し恥ずかしいわ・・・」
何となく記憶の片隅に残っていた事を口にすると、頬を少し紅くし、其れを気にして手で隠す。
隠さないで。
もっと見せてください。
そう求める自分と、云えない自分。
積極的と消極的が共存する、正反対でも両方共がワタクシ。
こんな、自分が分からなくなる感覚は以前にも何度かある。
根本は違うが、雰囲気は同じだ。
知っている自分と、知らない自分。
『知らない方が良い事も・・・あるんですよ・・・?』
ワタクシは一体・・・何を知らないのですか?
教えてください。
誰か。
「でも・・・知っていますよ」
其の言葉に、思わず勢い良く振り向く、大きな反応をしてしまった。
「えっ?」
「・・・え?」
質問を質問で返され、何処かに矛盾がある事が分かった。
何処かは分からなかったが。
「え、いや、其れは・・・えっと、何が・・・?」
しどろもどろに改めて訊く。
すると鞠絵ちゃんは安心したような、残念そうな、不思議な表情を見せる。
「私が知っているのは、春歌ちゃんはおでんの昆布が好きって事です」
ふぅ、と鞠絵ちゃんは何故か溜息を吐く。
ワタクシは思っていた物とは掛け離れた答えに、気が抜けた。
でも・・・
「確かに・・・そうですわね」
ワタクシがそう呟くと、鞠絵ちゃんは悪戯の成功した子供のように無邪気に微笑う。
つられて、目を細めた。
「春歌ちゃんがわたくしの事を知ってるのと同じ位、わたくしも貴女の事を知っているのですよ」
本当に・・・そうでしょうか?
そう訊きたい欲を、押し殺す。
今は此の雰囲気で居たい。
だから。
・・・でも、初めて相手を目にしたのは、鞠絵ちゃんよりもワタクシの方が先だ。
だって、鞠絵ちゃんは眠っていた。
だけど・・・
あの時の錯覚のような物は今も覚えている。
本当は出逢うよりも前に、鞠絵ちゃんはワタクシの事を知っていたのではないか。
鞠絵ちゃんは教えてくれない。
いや・・・話してくれない。
「如何したの?」
「いえ、別に・・・」
顔を上げれば、何時の間にか商店街に差し掛かっていた。
「そう、ですか・・・で、如何します?一緒に買い物をしますか?分担しますか?」
何気ない質問。
でもワタクシは迷った。
基準は彼女と居られる時間の差だ。
一緒に居れば、勿論多くの時間を共に出来る。
でも、別々に買い物をすれば早く・・・
『違う』
・・・え?
耳に響いた低い音に言葉を止める。
「わんっ」
ミカエルが鳴いた。

しかし、其の後はもう何も聞こえなく、先刻のは気の所為と云う事で水に流した。
「二人で分担して買い物をしましょうか。其の方が早く終わると思いますので・・・」
そうすれば、ゆっくりと話が出来る時間が増える。
だけど。
一瞬・・・そう、一瞬だけ、鞠絵ちゃんの眉が顰められたように見えた。
そして気が付く。
自分の口にした言葉が思った事とは違う事に。
「では、春歌ちゃんは大根やじゃが芋等の野菜類と昆布を買ってきて頂けますか?」
そう云い、何故か急いで買い物に向かおうとする鞠絵ちゃんに、ワタクシは訂正出来なかった。
「分かりました・・・」
返事をすると鞠絵ちゃんは小さく手を振り、スーパーの方へと小走りで向かって行った。
ミカエルも其の横を離れないように速度を合わせて走っている。
ワタクシは、早く買い物を終えて家でゆっくり二人で会話するのも悪くないと無理矢理納得する。
そして八百屋の方向へ歩き出す。
誰かが、溜息を吐いたような気がした。





二、三分歩いた後、右手側に一軒の花屋が視界に入った。
其の店先に置かれた、真っ赤なチューリップの入った籠。
二年前と何ら変わりは無い。
四葉ちゃんとは、此処で初めて出逢った。
二人共が初めて見た日本を勘違いしながら、何となく惹かれていた。
姉妹だと分かった時は納得さえしてしまったほどだ。
花屋を通り過ぎようとした時、ワタクシはふと足を止める。
「すみません」
店員さんを呼び、ある花達で花束を作ってもらう。
ピンクローズ、スイトピー、アルストロメリア、かすみ草。
鞠絵ちゃんはこの花達を何故か大変気に入っていた。
確か、ワタクシが鞠絵ちゃんの病室へ初めて持っていった花の筈。
其れが理由で喜んでくれているのならばとても嬉しい。
でも・・・ならば何故、ワタクシはこの花を選んだのでしょうか?
日本に初めて降り立った日に。
そう・・・あの、忘れられない二月十一日に。
店員が作り終えた花束と引き換えに代金を巾着袋の中の財布から出し、払う。
「さて・・・」
改めて五、六軒ほど隣にある八百屋へ向かう。
花々の匂いは、異様なまでに悩み過ぎている今日のワタクシの気持ちを落ち着かせた。
少し急ぐように小走りで目的地へ行き、直ぐに買い物を済ます。
特に問題は無かった。
しかし、何よりも大切な事を忘れていることに気付く。
待ち合わせ場所。
あ、と小さく聲を漏らし、周りを見渡す。
そして、一瞬考え、直ぐに鞠絵ちゃんの居る場所を思い付く。
玉子や竹輪を売っている場所なんて、スーパーぐらいしか御座いませんよね。
微笑。
だけど・・・
何故か、疑うべき事が無い筈の自分の思考に、自分の中の何かが突っ掛かった。
公園。
何故か公園の方に目をやる。
ブランコに滑り台、シーソー、砂場。
何の変哲も無い、この辺りでは少し大きめの公園だ。
幼児が遊ぶには丁度良く、人が良く集まる場所。
しかし、今日は休日だと云うのに珍しく誰も居ない。
ワタクシは一歩、踏み出した。
公園へ向かって。
何故?
もう、考えるのは疲れた。
何でも良い。
自分が分からなくても良い。
頭の中を埋め尽くす疑問を一つでも消してくれる要素になり得るのならば・・・
公園の少し錆びた小さな柵と一体化した扉を開くと、キィと嫌な音が鳴る。
足を踏み入れれば、ジャリッと云う砂の感覚。
アスファルトの多い此の街に住み始めて、久し振りに足の裏に其れを感じる。
そんな身近な懐かしさと、少し違う物。
分からない、分からない。
ワタクシは小さい頃から・・・そう、物心が付く前からドイツに居た筈・・・
一体、何なのですか?
自分の記憶は、何か別の物の付け焼刃なのだろうかと云う疑問さえ浮かぶ。
滑り台の鉄製の斜面を指先で撫でると、其の感触を憶えている自分が居る。
多くの人が利用する故に常に光を眩しく反射するほど磨かれていた。
そして、今度はブランコに近付き、そして・・・
「春歌ちゃん?」
「ッ!?」
急に名前を呼ばれ、ワタクシは心臓が口から飛び出るほどに、驚いた。
決して大きな聲で呼ばれた訳ではない。
勿論、其れが誰かも分かりきっている。
だけど・・・
だけど・・・なら、何?
兎にも角にも、心中を悟られないように冷静を装う。
「もう、買い物はみましたか?」
「ええ、春歌ちゃんも・・・済んだ様ですね」
鞠絵ちゃんは私の片手にチラッと目をやり、云う。
ワタクシも鞠絵ちゃんの片手を見て、そしてハッとする。
「あっ、あの、荷物はワタクシが持ちますね」
此の人に負担を掛けてはいけない。
其れは・・・こう云うと本人は嫌がると思うが、常に気を遣わなければいけない事だった。
「ええ、お願いしますね」
鞠絵ちゃんは両手でそっとワタクシにスーパーの買い物袋を渡した。
素直に渡してもらえて、内心ホッとする。
謝られたりしたら、此方も何となく遣り辛くなってしまう。
「そう云えば、如何したのですか?其の花・・・」
「・・え?」
鞠絵ちゃんの視線を辿り、自分の腕の中に辿り着く。
其れは、先程買った花束。
最初は匂いで存在感を表していたが、鼻が慣れてくると同時に其れも無くなっていた。
「え、えっと・・・」
目的は分かっているのに、照れて口篭もった。
ほとんどの国が、花を渡す事はプロポーズの意になる。
勿論、彼女はワタクシの気持ちには気付いている・・・と思う。
いえ・・・絶対に知っている。
気持ちを面と向かって伝えた事は無いが、其れで良かった。
満足していた。
そう・・・・・・『していた』・・・
ワタクシは二人分の買い物袋を一度地面に置き、花束を両手で渡す。
まるで卒業証書の受け取りのような、堅苦しさを含んで。
「あの・・・此の花は・・・鞠絵ちゃんに差し上げたいのですが・・・」
我ながらハッキリとしない物云いだ。
だが、鞠絵ちゃんには伝わったらしく、花の種類を改めて目にし、驚いていた。
「あっ・・・此れって・・・・・・あ、有難う御座います!」
同じく鞠絵ちゃんも両手で受け取り、礼をしながら花束を優しく抱き締めた。
「有難う・・・」
そしてもう一度、呟く。
其の言葉を云いたいのは・・・ワタクシの方です。
受け取ってくださって・・・有難う御座います・・・
「此の花達の花言葉・・・知っていますか?」
彼女は微笑んだまま、しかし真剣な瞳を向けて問う。
視界の下ではミカエルがスーパーの袋にじゃれついて、ジャラジャラと音を立てていた。
「え?」
其の質問に、何故其処までの視線を向けるのかを疑問に思い、思わず訊き返す。
「いえ・・・知らないのなら良いのですが・・・」
「あ・・・」
少し、いけない事をしたのかもしれない。
後悔しながらも、再び訊き返す事も出来ない。
「すみません。花言葉の知識はあまりありませんもので・・・」
結局、そう云うしかなかった。
「いえ、気にしないでください・・・では、帰りましょうか?」
鞠絵ちゃんの、悲しい翳り隠そうとする其の笑みを、ワタクシは永遠に忘れないだろう。
そう、思った。
其れは本心からだったのでしょうか?
しかし、ワタクシ自身が其の問いの意味を理解していない。
だから答えは何処にも無いのだろう。
地面に置いておいた二つの袋を持ち、一歩前進む。
そうすれば鞠絵ちゃんも歩き出す。
そしてワタクシ達は公園を出た。
今、此の瞬間は何気ない事だった。
でも・・・・・・本当は・・・





「あの・・・春歌ちゃん、少し良いですか?」
鞠絵ちゃんが急に足を止める。
すると、ミカエルがワタクシの前に回り込み、ワタクシの足を止めさせた。
そんな事をしなくても、止まるつもりだが。
「何でしょう?」
ミカエルがまた鞠絵ちゃんの横まで戻る。
「少しだけ、河原に寄っても良い・・・かしら」
少し吹いてきた風に前髪を乱され、鞠絵ちゃんはごく自然に其れを直す。
其の時見えた彼女の額には汗が少し見えた。
河原はワタクシの家への帰り道から少し逸れれば寄れる距離だ。
・・・如何したのだろうか。
許可を得てきた事を疑問に思っているのではなく、其処にどんな用事があるのかを疑問に思う。
しかし、そんな事は普段ならば気にならなかった筈。
でも、今の彼女を見れば誰でもそう思ったに違いないだろう。
ただの我儘でも、気紛れでもなく、彼女は真剣に何かが其処にあるかのような瞳をしている。
「え、ええ・・・ワタクシも行きたいと思っていましたので、良いですよ・・・?」
行きたいと思っていた、と云うのは嘘だ。
でも、行きたいと思ったのは本当の事。
鞠絵ちゃんの瞳を意味を信じたい。
・・・どんな?
分からない。
分からないから、行きたい。
「わんっ!わんわんわんっ!!」
突然、だった。
ミカエルが大きく吠えながら、駆け出す。
河原とは全く逆の方向へ。
紐を持っていた鞠絵ちゃんは急に後ろに引っ張られて、バランスを崩し掛ける。
ワタクシは右手で鞠絵ちゃんの躰を支えつつ、左手で彼女の右手から紐を奪った。
咄嗟の事だったので、買い物袋は地面に放り投げてしまった。
そして、ミカエルの力が少し弱まった時に、鞠絵ちゃんの体勢が整えさせる。
少し混乱状態に陥っているの鞠絵ちゃんは言葉を発することが出来ないようだ。
其れをワタクシが認識すると同時に、ガクン、と引っ張られる衝撃が肩に響く。
また・・・いや、先刻よりも強くミカエルが引っ張っているのだ。
如何云う・・・事・・・?
普段は・・・少なくとも鞠絵ちゃんの前では大人しいミカエルが暴れ出した事に、驚きを隠せない。
普段鍛錬をしているワタクシですら、大型犬の力に及ばず、足元がふらつき掛けた。
そして、片足の爪先が地面から離れかけた時・・・
「ミカエル!!」
鞠絵ちゃんが矢を射るように、鋭く聲をあげた。
滅多に出さない大きな聲を出した所為か、小さく息を切らせた。
途端、ミカエルがパッと大人しくなり、引かれる力はゼロになる。
・・・!?
体勢が崩れるのを前提として受け身を取ろうとしていたので、逆に自分から倒れそうになる。
手の間から、ミカエルの首輪に繋がっている紐が落ちた。
大きな聲を出した鞠絵ちゃんは息を切らせ、ミカエルは彼女の足元を心配そうにうろつく。
そして鞠絵ちゃんはしゃがみ、紐を拾ってから、ミカエルの背中を撫でる。
・・・悲しそうに。
「如何して・・・如何してこんな事するの・・・?もう、良いから・・・」
・・・何が・・・何が、もう良いのですか?
貴女は何を知っているのですか?
貴女達は・・・何を知っているのですか?
ワタクシは其の光景をただ見守る事しか出来なかった。
「有難う」
そう云うと、ミカエルの胴を鞠絵ちゃんは軽く抱き、立ち上がった。
「本当にすみません・・・・・・さて、気を改めて、河原に行きましょう・・・?」
「・・・はい」
ワタクシは買い物袋を再度持った。
もう、何も訊く事は出来ない。
何を訊けば良いのか、分からない。
先刻の公園の時と同じ。
疑問は減らないで、次々と積み重なっていく。
其れはやがて心情に諦めを招く。
溜息を吐いても、其れは聞こえたのか否か分からないまま、鞠絵ちゃんは歩き続ける。
時折ミカエルとワタクシに目をやりながら。
目が合えば微笑みをくれる。
何時もと同じ。
でも、違う。
何かが・・・変わってしまっているのですね・・・
其れだけがワタクシの唯一分かる事なのかもしれない。
覚悟をする事だけがワタクシに唯一出来る事なのかもしれない。
如何して・・・
頭に浮かぶ疑問のどれに当てた物かは自分でも分からない。
ああ・・・きっとそうですわ。
先刻の言葉は此の現実に向けた物。
ワタクシがワタクシである事への嬉しさと悲しさ、寂しさ、葛藤。
もしかしたら・・・河原まで行ければ、全ての悩みを終える事が出来る・・・?
ワタクシは此の現実の中で、そんなたった一欠けらの希望を見つけた。
希望だと・・・思い込んだ。





真昼から三時間程経って、日は徐々に弱まっていく。
やがて太陽ととワタクシ達の間に木々が位置し、日光を遮る。
其れでも・・・やはり此処は明るい。
ああ・・・もう河原が見えてきましたね。
歩いている間、ワタクシは何も考えなかった。
考えようと思わなかった。
ただ、隣を歩く少女の聲を聞きながら。
ただ、隣を歩く少女の笑顔を目に焼き付けながら。
ただ・・・愛しい人の横を歩ける事を貴く思いながら。
そして、歩いていた。
鞠絵ちゃんと。
・・・足元が小さな凹凸のある道路から、平らなコンクリートの物に変わる。
河原に・・・着いた。
海の近い此処は、底の見えるほどに澄んだ、綺麗な水が流れている。
静かに吹く風は家を出た時とは打って変わって涼しく、何とも云えない爽快感がある
「涼しい・・・ですね・・・」
立ち止まり、呟く。
其れをワタクシは問いと受ける。
ワタクシは一息置いて頷いてから、そして更に一息置いて聲を出す。
考えていた事が同じだった、と云う事に喜びを感じながら。
「ええ・・・・・・もうすぐ・・・夏・・・ですのにね・・・」
ワタクシは上の空のように呟き、やがて鞠絵ちゃんが嬉しそうにしている事に気付く。
何故かを、視線だけで問うた。
「話した事、ありましたっけ・・・ワタクシは夏が好きだって事・・・」
ワタクシはコクン、と一度頷く。
其れを見て、少し目を細めてから、鞠絵ちゃんはゆっくりと歩を進める。
ワタクシは鞠絵ちゃんが三歩ほど離れていった辺りから、同じ速度で後ろをついていく。
やがて、鞠絵ちゃんは河原の脇にコンクリートの階段を見つけ、其処に腰を下ろした。
「どうぞ」
手招きする鞠絵ちゃんの横に、自分も腰を下ろす。
鞠絵ちゃんの居る方向とは逆に、荷物を全て置く。
其の時、初めてある事に気が付いた。
先程まで・・・いや、最低でも公園に居た時は一緒に居た筈・・・
そう・・・ミカエルが、居ない。
「あ、あの・・・ミカエルは・・・?」
鞠絵ちゃんが何も云わないので、気付いていないのかと思い、聲を掛ける。
「ミカエルはもう居ませんよ」
当たり前のように云った其の言葉の意味を飲み込むのに、一瞬の間があった。
「鞠絵ちゃ・・・」
「そんな事よりも、聞いてください」
聞き返す間も無く、鞠絵ちゃんは聲を発する。
其の何処かに潜んだ強さに、ワタクシは思わず口を閉ざした。
「・・・憶えてますか?わたくしと春歌ちゃんが初めて出逢った時の事・・・」
目をギュッと瞑り、先程とは打って変わり、優しく囁くように問う。
・・・・・・当たり前でしょう?
忘れる筈が無い。
忘れられる筈が無いあの瞬間。
でも、ワタクシの思う初めて逢った時に其の時鞠絵ちゃんは眠っていた。
鞠絵ちゃんの云っているのは、ワタクシ達の歓迎パーティーの直前だと・・・思う。
そうでなければ、何処かが間違っている。
【何処か】・・・根本的な【何か】が・・・
「ええ、ハッキリと憶えています」
質問の意図を考えながら、平静を装って答える。
すると鞠絵ちゃんは微笑み、河の流れに目をやる。
其れは何故か・・・憐れむような、悲しそうな笑みだった。
何故。
其処にあるのは疑問ではなく、ただの呟き。
確かに気になる。
訊きたいと思った。
でも・・・何故か訊けなかった。
ほら、何故がまた重なる。
だから考えない。
・・・正直、考えるのに疲れてしまったのかもしれない。
自分が如何かしてしまうような、重さを其処には感じる。
所詮は出逢ってまだ数年なのだ。
知らない事の方が多いに決まっている、と。
ただただ諦めを地面へ投げ付けて、一人で手毬唄を歌いながら。
・・・何秒経ってからだろう。
鞠絵ちゃんは口を開く。
「水って・・・綺麗ですよね」
鞠絵ちゃんはそう云いながら目を細め、水を辿れば何時かは辿り着くであろう海を見つめた。
ワタクシは答えない。
鞠絵ちゃんは、すっと立ち上がり、河に近付く。
「広い、海・・・春歌ちゃんの住んでいたドイツまで続いているんですよね・・・」
鞠絵ちゃんは大きく息を吐いた。
其の時の眉が顰められた表情で初めて気付く。
鞠絵ちゃんの額が汗で濡れている事。
「ねえ、春歌ちゃん」
ワタクシを呼びながら、肩を上下させ、大きく呼吸をする。
顔色は青を通り越して白に近く、其れは明らかに病人の色だった。
「鞠絵ちゃん・・・大丈夫、ですか・・・?」
ワタクシは上半身を少し前に傾けさせながら、恐る恐る訊く。
大丈夫な訳が無い。
こんな顔色をして、大丈夫な人が居る訳が無い。
心の中でそう思いながら、そして其れを否定しながら。
其れでも、ワタクシは何故か動けなかった。
糸で縛り付けられたように、其処から動けなかった。
「良いから・・・聞いて・・・ください・・・」
真っ直ぐに立っているだけなのに、鞠絵ちゃんの額の汗は消えない。
まるで糸で吊られているかのように不安定に。
そう・・・糸。
「・・・わたくし・・・は・・・」
何かを云い掛けた鞠絵ちゃんの躰が、グラッと傾く。
両方の糸が・・・切れた。
「鞠絵ちゃん・・・っ!」
ワタクシは驚きから大きく目を開き、咄嗟に駆け寄る。
スローモーションのように、可笑しな感覚の中で、数歩の距離を必死に走った。
そして・・・ドサッ、とワタクシの両腕に華奢な躰が委ねられる。
ゆっくりとしゃがみ、鞠絵ちゃんをコンクリートの上に座らせた。
・・・ようやくワタクシは先程から鞠絵ちゃんのしている表情の意味が分かった。
其れ等は当たり前なのではなく、当たり前だと思おうとしている。
其れを知った時から覚悟をしてきたのだろう。
其れが・・・他でもなく其処にあるのだ、と。
全てを諦め尽くしてまでも・・・
まさか、と云う不安だけを思考の奥に感じながら。
そして其れが真実になるとは思いたくもなかった。
信じたくなかった。
「ちょ、ちょっと待ってくださいね。今・・・お医者様に電話をしますから・・・」
ワタクシは心底焦りながら、巾着袋から携帯電話を取り出す。
指が震えて、たった二つのボタンが上手く押せない。
其の時、そんなワタクシの手に鞠絵ちゃんの手が優しく重ねられた。
其の手は驚く程に・・・熱かった。
「大丈夫・・・・・・大丈夫・・・ですから・・・」
鞠絵ちゃんは震えながら、宥めるように云う。
しかし、其の躰は震え、ガチガチと歯がぶつかり合い、鳴っていた。
胸が切なさと情けなさと、そして無力さに締め付けられて泣きそうになる。
「もう・・・止めてください!大丈夫な訳無いでしょう!?だから・・・だから・・・」
云い掛けて、言葉を飲み込む。
歯を強く噛み締め、震えを止める。
そして、やっと二つのボタンを押せた。
鞠絵ちゃんの額に手を置き、異常な体温の高さを確かめる。
携帯電話の短縮ダイヤルには、鞠絵ちゃん直属のお医者様への電話番号を設定していた。
お医者様にそう云われていたから。
如何なる時にこうなっても連絡が取れるように。
そう・・・本当は何時こうなっても可笑しくなかったのだ。
なのに・・・
ギリッと歯が軋む。
電話の向こうに出た、聞き覚えのある聲の看護婦に状態を伝える。
躰が熱くなっている事と場所を告げただけで、電話は切った。
そして、ワタクシは鞠絵ちゃんに顔を向ける。
「そんな顔・・・しないでくださいよ・・・大丈夫ですから・・・」
また、大丈夫と云った。
今ワタクシはどんな表情をしているのだろう・・・
多分・・・いえ、少なくとも、微笑っている鞠絵ちゃんとは正反対の表情。
「直ぐに救急車が来ますからね・・・だから・・・」
其の後の言葉は見つからない。
分からない。
救急車が来るから・・・だから、鞠絵ちゃんに何を望む・・・?
「ねえ・・・・・・聞いてくれる・・・?」
先程から鞠絵ちゃんが繰り返す問いにワタクシは、ゆっくりと・・・頷いた。
泪が、鞠絵ちゃんの服を濡らす。
ワタクシは何かを悟った。
分かってしまった。
今までとは違う鞠絵ちゃんに。
ワタクシはハンカチで鞠絵ちゃんの汗を拭う。
目をそっと閉じ、安らぎながら微笑みを保ち続ける。
そんな何時もと変わらない表情なのに、呼吸は変なリズムを刻んでいた。
鞠絵ちゃんは数ミリ、口唇を開く。
小さな隙間から荒い呼吸を五、六回する。
そして・・・急に呼吸が穏やかな物に変わった。
其れこそ、完全に健康な人間と変わらない状態に。
「・・・わたくしは・・・」
鞠絵ちゃんはやっと言葉を紡ぐ。
呼吸は静かだ。
でも・・・聲は擦れていた。
まるで押し出すように言葉を繋いでいく。
「・・・わたくしは・・・・・・・・・貴女・・・を・・・・・・・・・・・・」
・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・?
・・・其の瞬間を境に鞠絵ちゃんの聲が、消えた。
同時に、ずっと鞠絵ちゃんの口元を飾っていた微笑みも消える。
「ま・・・鞠絵・・・・・・ちゃん・・・?」
ドクン、と、鼓動が大きく響いたような気がする。
額に汗が浮き出た。
そして自分の表情に、無理に引き攣った笑いが作られる。
まさか、と。
嫌な予感。
そんな訳が無い、と。
否定する希望。
手首の脈に親指を当てる。
焦って指が震え、上手く探し出せない。
数秒。
そして、全身の力が抜けた。
鞠絵ちゃんの上半身を乗せている膝が地面に落ちた。
・・・ワタクシは大きく息を吐く。
安堵の息を。
脈はまだ、あった。
状況は決して良くはなっていない筈なのに、其れは希望にも思える。
遠くの方で救急車のサイレンが鳴っていた事に気付く。
其れが直ぐ近くに聴こえるまでに数分も掛からなかった。





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