君が見つめた海
〜第三章〜




あれから三日が経過した。
鞠絵ちゃんは驚異的に回復し、今日めでたく退院となる。
だから、ワタクシは鞠絵ちゃんを迎えに行く。
病院に向かいながら、三日前の事を思い出す。
・・・ワタクシはあの日、あの時、あの場所で鞠絵ちゃんが死んでしまうのかと思った。
河原で触れた鞠絵ちゃんの額の温度。
救急車から降りた時の顔色の悪さ。
今だから云える事だが、まるで死人の様だった。
だが今は違う。
昨日鞠絵ちゃんに逢った時、彼女はとても嬉しそうに退院の事を話してくれた。
其の時の表情は今まで見た中で最高の笑顔だった。
何一つ曇りが無く、純粋に喜んでいた。
衰弱し、鈴凛ちゃんに看護されていたミカエルも、現在は元気になった。
以前ほど活発に動き回ってはいないものの、散歩には毎日行っている。
ご飯も適量を食しているので、問題は見当たらない。
ミカエルが元気になった翌日、鞠絵ちゃんにお礼を云われて鈴凛ちゃんは照れていた。
鈴凛ちゃんは終始、千影ちゃんに云われてやっただけ、と照れ隠しに云い続けた。
幾らワタクシが鞠絵ちゃんを好きだとは云え、其の様子に嫉妬などしなかった。
鈴凛ちゃんがあの日、どれだけ鞠絵ちゃんの傍に来たかったかは良く分かる。
ワタクシだったら、ミカエルを置いて来ていたと思う。
其れなのに、鈴凛ちゃんは我慢をした。
あの日病院に訪れたのは、見た目がかなり似ているので一瞬だけ本人かと思ったが、違和感から直ぐに気が付いた。
稼動すら不安定なメカ鈴凛ちゃんのカメラやマイクを使って、モニターやスピーカー越しにでも、此処に居たかったのだろう。
でももう、そんな我慢はしなくて良い。
鞠絵ちゃんは皆の傍に帰って来てくれる。
そう、夢が叶うんですよ。
貴女の・・・そして、ワタクシの夢が。





「お早う御座います、鞠絵ちゃん」
「お早う御座います、春歌ちゃん」
白い壁。
白い扉。
白い部屋。
白い少女。
其の中で昨日と何ら変わりない挨拶を交わす。
其れ以前にも何百回と交わしてきた。
なのに其れが今はとても新鮮に感じる。
開かれた窓からの綺麗な風がとても心地良い。
ワタクシ達はどちらからでもなく、無意識に微笑み合えた。
・・・そうか。
ワタクシは今まで何にも代え難い程の倖せを持っていたのですね。
もう・・・決して手離したりなんてしない。
例え運命だとしても、逆らい続けて鞠絵ちゃんを守りたい。
例え、此の腕を失う事になっても、唯一の鞠絵ちゃんを守る為ならば、何も怖くない。
「・・・今日も、良い天気ですね」
鞠絵ちゃんはいつものようにベッドに座りながら、窓の外に広がる空を見て云った。
純白のカーテンが風になびく。
「こんな日に退院出来るなんて、とても嬉しいです」
ふと見せた鞠絵ちゃんの笑顔には、今までとは少し違う何かがあり、そして何かが無かった。
あったのは喜び、無くなったのは悲しみ。
そうであるとは云い切れないが、そうであって欲しいとは云い切れる。
「ええ。今日は鞠絵ちゃんに見せたい物があったので、ワタクシも嬉しいですわ」
「あら、何があるんですか?」
わざと気になるように云うと、鞠絵ちゃんはワタクシが答えないであろう事を分かっていながら微笑んで問う。
「何処かに寄り道をする訳ではないので、お時間はとりませんわ」
ワタクシは微笑み、鞠絵ちゃんに手を差し伸べた。
「さあ、帰りましょう。鞠絵ちゃん」
「ええ」
鞠絵ちゃんはワタクシの手に、自分の手を重ねた。
手の平に掴む、確かな体温と、温かく女性的な柔らかさ。
ワタクシの手の平は武道の訓練で少々硬くなってしまっていて、其の柔らかさは無い。
羨ましいとは思いこそ、決して後悔はしない。
今のワタクシには願う事がある。
守りたい者がいる。
鞠絵ちゃんはそっと、ワタクシの腕に自分の腕を組んできた。
其れはまるで、此れからダンスを踊る二人のような、ロマンティックな触れ合いだった。





風が涼しい。
水の近くに吹く、清々しい風。
鞠絵ちゃんが倒れた河原でも、風は吹いていた。
決して心地良さを感じなかった風。
河川から海に変わる直ぐ近くの、丘の上の道路。
病院から街へ向かうまでに別に近道がある為、あまり使われない道。
ワタクシと鞠絵ちゃんは其れを知っていながら、今此の道を歩いている。
昔、お祖母さまが云っていた事があった。
人間には遠回りしたい時もある。
人間には二人だけでいたい時もある。
そう、云っていた。
多分今が、其の時なのだろう。
「春歌ちゃん」
病院からウェルカムハウスまでの道程にある海沿いの道路で呼び止められ、ワタクシは振り向く。
水平線の向こうから吹いてくる風に靡く髪を片手で押さえながら、鞠絵ちゃんは眼鏡を外した。
「今すぐでなくて構わないんです。だけど出来れば早く・・・」
鞠絵ちゃんの視線が横へ向く。
其処にあるのは風の吹いてくる場所。
ずっとずっと遠くまで広がる蒼い海を、鞠絵ちゃんは見つめていた。
「今度、わたくしを海に連れて行って頂けますか?」
鞠絵ちゃんは目を細めた。
ふっと微笑み、眼鏡拭きを鞄の中から出して眼鏡を拭いた。
其れを掛け直した鞠絵ちゃんは今度はワタクシを見つめる。
ワタクシに、断る理由なんてあるだろうか。
鞠絵ちゃんは今までどれだけ其の言葉を抑えていたのだろう。
突然であれば水にさえ、触る事を許されずに何年間も。
ワタクシがドイツで鞠絵ちゃんの話を聞いたのは、ワタクシが日本に来るよりも以前の事。
そして、ワタクシが日本に来てからだけでも既に二年が経過している。
咲耶ちゃん達の話からは、如何やら幼少時からの病気らしい。
ワタクシには鞠絵ちゃんと出逢ってからの、たったの二年ですらそんな状況を考えられない。
鞠絵ちゃんの気持ちは悲しい事に分からないのです。
だからせめて。
「ええ、構いませんよ」
何も問題が無いような事を云いながら、心の中ではお医者様に許可を頂かなければと思っている自分。
とても腹が立ったが、とても好きになれた。
三日前に伝え合えた想いがそうさせてくれた。
肥大する自己愛と妄想を抱きながら、ワタクシは鞠絵ちゃんを愛している。
だから、ワタクシは鞠絵ちゃんを愛しているワタクシを愛せるのかもしれない。





「おかえりっ!鞠絵ちゃん!」
ウェルカムハウスの門を開けると、庭にあるミカエルの小屋の方から早速雛子ちゃんとミカエルが出迎えてくれた。
「ただいま、雛子ちゃん、ミカエル」
鞠絵ちゃんはしゃがみ、雛子ちゃんの頭とミカエルの背中を撫でる。
続いて、咲耶ちゃんと千影ちゃんが姿を見せた。
千影ちゃんは鞠絵ちゃんを見てから、ワタクシの顔を見つめた。
「おかえり・・・・・・早かったね・・・・・・」
「そうでしょうか?」
時間の経過がどの位か分からないので、素直に問う。
回り道をしていたので、其れなりに時間は経ったと思っていた。
「そうよ、寄り道してきても良かったのに」
咲耶ちゃんは満面の笑みで、冗談めきながら云う。
其れならそうとワタクシが迎えに行く前に云ってくれれば良かったのに、なんて。
普段は思わないような冗談を、言葉としては云わなかったが、咲耶ちゃんにつられて思った。
「おや・・・・・・まだか、と・・・・・・何度も云っていたのは・・・・・・誰だったかな・・・?」
千影ちゃんが微笑むと、咲耶ちゃんは火が点いたかのように顔を真っ赤にした。
そして照れ隠しに鼻歌を歌い、ミカエルの耳を弄った。
・・・二人とも、嬉しいのだろう。
笑顔を隠し切れないくらい。
そう、今のワタクシと同じように。
ミカエルが頭を左右に二度振ると、咲耶ちゃんは耳から手を離した。
「・・・パーティーの準備が未だなんだけど・・・如何したら良いかしら?」
咲耶ちゃんは千影ちゃんとワタクシに、小声で呟く。
「別に構いませんよ。わたくしにもお手伝いさせてください」
鞠絵ちゃんは其の呟きが聞こえたらしく、咲耶ちゃんをしゃがんだまま見上げてそう云った。
「えっ、聞こえちゃったかしら?」
「はぁ・・・・・・」
慌てる咲耶ちゃんに、千影ちゃんがわざとらしく溜息を吐いた。
鞠絵ちゃんは察しているだろう。
其のパーティーは誰が云い出した訳でもなく、鞠絵ちゃんの為に開かれる事になった事を。
ワタクシ達が帰国してくる前は、鞠絵ちゃんがずっと入院していたので、姉妹全員揃う事は少なかったらしい。
だから姉妹全員が一つの家に偶然揃う事は珍しい故、集まる理由になるパーティーは皆大好きだ。
だが今、四葉ちゃんがお祖父さんが亡くなってからお祖母さんと共に暮らしている為、四葉ちゃんは日本にはいない。
いつ帰ってくるのかすら分からないが、いつか帰って来てくれると彼女は皆の前で約束した。
四葉ちゃんがいなくなってからは以前とは違い、毎月一回必ずパーティーを開くと云う事はなくなった。
其れでも現在は一年に十一回、誕生日パーティーが開かれる。
そして今回のように例外もある。
勿論ワタクシも其れがとても楽しみだ。
そしてもうあと何日かで開かれるであろう、鞠絵ちゃんの誕生日パーティーも・・・
「咲耶くん・・・・・・」
千影ちゃんに呼ばれ、言葉を聞く前に咲耶ちゃんは頷いた。
「そうだったわね。鞠絵ちゃん、皆が中で貴女の事を待っているから、早く行ってあげて」
鞠絵ちゃんの腕の中でじゃれつくミカエルに千影ちゃんが手を伸ばすと、ミカエルは大人しく鞠絵ちゃんから離れる。
そして、千影ちゃんの指をペロペロと舐めた。
千影ちゃんは目を細め、笑う訳でも悲しみを見せる訳でもなく、ただミカエルを見つめる。
四葉ちゃんがイギリスに行ってしまってから、千影ちゃんは時折其のような表情を見せるようになった。
ワタクシには、何とも云えない表情。
だけど咲耶ちゃん曰く、昔は幾度となく見かけた表情、だそうだ。
昔とは、ワタクシ達が帰国してきたよりもずっと以前の、千影ちゃんが姉妹に対してすら心を開いてなかった頃らしい。
其れでも、溜息が無いだけ以前よりはマシよ、と鈴凛ちゃんは云っていた。
「ええ、分かりました。其れでは、また」
鞠絵ちゃんは頷き、立ち上がる。
「ヒナも鞠絵ちゃんと行くのー!」
「ええ、其れじゃあ雛子ちゃん、一緒に行きましょうね」
腕にしがみついた雛子ちゃんにそう云い、鞠絵ちゃんは反対の手を差し出す。
「わぁーい!くししし・・・」
雛子ちゃんは嬉しそうにピョンピョンと跳ね、鞠絵ちゃんの手を握った。
玄関の扉を開け、雛子ちゃんは鞠絵ちゃんを中へと引っ張る。
扉の前で鞠絵ちゃんは一瞬振り返り、ワタクシの目を見つめる。
春歌ちゃんは如何するんですか?
強制ではない無言の問いだった。
答えは決まっている。
でもワタクシが答えるよりも先に扉が閉まり、鞠絵ちゃんと雛子ちゃんの姿は見えなくなった。
「それじゃあ、私達は買出しに行く途中だったから、また後でね。行くわよ、千影」
そう云うと、咲耶ちゃんはワタクシ達の来た道の方へ向かって歩いていく。
「・・・ああ・・・・・・」
仕切られて少々納得のいかないような表情をしながらも、千影ちゃんはついていく。
多分また、千影ちゃん一人が買い物袋を持たされて帰って来るのでしょう。
思わず口元で笑ってしまったワタクシを、千影ちゃんは横目で見る。
目が合うと、千影ちゃんは微笑った。
今までワタクシが見た千影ちゃんの笑顔の中でも、とても素敵な笑顔だった。
ワタクシは鞠絵ちゃんと同じように、玄関からウェルカムハウスへと入った。





玄関の扉を開けると、雛子ちゃんが新しく買ったばかりらしい靴を脱ぐのに苦戦していて、鞠絵ちゃんが手伝っていた。
二人とも先に上がっていると思っていたから、二人と一緒に皆の前に向かうとは思っていなかったので、予想外だった。
だが、鞠絵ちゃんに向けられる言葉と笑顔を見たいとも思っていたので、ワタクシ個人としては丁度良い。
ワタクシには良くっても、如何やら雛子ちゃんには良くないようですね。
私は苦笑いをした。
「如何したのですか?」
「うわーん!靴紐が解けなくなっちゃったのー!」
ワタクシが問うと、雛子ちゃんはジタバタと地団太を踏みながら答える。
其れはワタクシの予想通りの答えだった。
「雛子ちゃん、暴れないで」
雛子ちゃんの靴紐を解こうとしていた鞠絵ちゃんが云うと、雛子ちゃんはピタリと止まる。
「ごめんなさい、鞠絵ちゃん」
「ええ、良い子ね」
素直に謝る雛子ちゃんの頭を、鞠絵ちゃんはそっと撫でた。
まるで本当に母親のような姿。
ワタクシは其の姿を無言で見つめる。
鞠絵ちゃんは将来良いお嫁さんになれますね。
そう思った瞬間、何故か泪が溢れそうになった。
・・・ふと其の時、玄関に新たに人が一人現れた。
今度は家の中から。
「あ、おかえり」
廊下から姿を見せた鈴凛ちゃんは鞠絵ちゃんの姿を見ると、驚いた表情をした後、平静を装ってそう云った。
先日ミカエルを看病した事に何度も感謝された照れがまだあるのか、彼女は少し顔を逸らしている。
「鈴凛ちゃんも買い出しですか?」
鞠絵ちゃんはあえてもう其の話題には触れず、全く別の事について問う。
すると、やっと鈴凛ちゃんは鞠絵ちゃんを真っ直ぐ見つめた。
しかし鞠絵ちゃんの微笑みを見て、また少し逸らす。
「ううん、違うよ。声が聞こえたから、もしかしてと思って来てみたの」
そう云って首を左右に振り、鈴凛ちゃんは廊下の奥の方にチラリと視線を移した。
「他の皆様は何処にいらっしゃるのでしょうか?」
鈴凛ちゃんの視線を追って廊下を見て、ワタクシは問う。
「丁度私だけ補聴器付けてたから聞こえただけみたいよ。私しか聞こえてないみたい」
鈴凛ちゃんはワタクシ達に耳に付けた小さな機械を見せた。
やっと靴紐を解けたらしく、鞠絵ちゃんは其の機械を見ながら立ち上がった。
そして雛子ちゃんは待っていたかのように靴を脱ぎ、鈴凛ちゃんの腰へ抱き付く。
「じゃあ、鈴凛ちゃんが鞠絵ちゃんのお迎え一番乗りだね!」
「うん、そう・・・ううん、やっぱり違うよ。一番乗りは・・・」
言葉を途中で止め、鈴凛ちゃんはワタクシの方を向く。
そして。
「春歌ちゃんだよ」
鈴凛ちゃんはニコリと・・・何処か寂しげに微笑った。
「其れに、雛子ちゃんが二番目でしょ?だから私は三番目」
続けられた言葉に、よく分からないと云う表情をしていた雛子ちゃんはパッと明るい表情で顔を上げる。
「やったー!ヒナが二番目なのー!」
幼さ故特有のオーバーリアクションで雛子ちゃんは喜びを表現する。
鈴凛ちゃんは少し呆れたような、あるいは圧倒されてテンションについていけずに困っていると云う表情をした。
もしかすると、原因は雛子ちゃんの大きな聲が補聴器で更に拡大されているからかもしれない。
また、本当は今日三番目に鞠絵ちゃんと出逢ったのは、咲耶ちゃんと千影ちゃんなのだが、云わないでいようと思う。
鞠絵ちゃんもワタクシと思った事は同じだったようで、ワタクシと目が合うと、微笑みながら小さく会釈をした。
そして、二人同時に鈴凛ちゃんと雛子ちゃんの方へ視線を戻す。
「そろそろ、皆も二人が帰ってきた事、気付いたと思うから、早く行ってあげて」
鈴凛ちゃんは時計を見ながらそう云い、あえてもう少し焦らしてみるのも面白そうだけどね、と付け加えるように呟いた。
鈴凛ちゃんの腕に着けられた、メビウスの輪のような表裏一体の、少し不思議なデザインの時計。
確か、あれは・・・
「ええ、そう致しますね」
鞠絵ちゃんはそう云い残し、廊下を歩き始める。
ワタクシも後を追うように歩き出すと、服を後ろへ引っ張られる違和感を感じた。
振り返ると、鈴凛ちゃんがワタクシの振り袖を小さく摘んでいた。
「私は暫く地下に居るから、用があったらブザーで呼んでね」
そう云い、ワタクシの手の平に文字通り手の平サイズの四角い箱を握らせた。
ボタンが一つと、スイッチが一つ付いている。
「あのね、あのね、ヒナも鈴凛ちゃんと一緒に居るよ」
「ええ、確かに承りましたわ。それでは、また」
スイッチは兎も角、ボタンを押せば良いのだろう。
鈴凛ちゃんが説明しなかったので、ワタクシもわざわざ説明を求めるような事はしなかった。
そして、外から地下へ通じる階段の方へ歩き出す二人に小さく手を振り、ワタクシは向き直す。
廊下の途中では、鞠絵ちゃんが此方を向いて待っていてくれた。





「何が良いと思いますか?」
ワタクシが鞠絵ちゃんの横に並ぶと、鞠絵ちゃんは訊ねてきた。
「・・・何がでしょう?」
彼女の、何、が何を指しているのか分からず、ワタクシは問い返す。
すると、一瞬ワタクシの瞳を見た鞠絵ちゃんは、意味深に微笑った。
「いえ、やっぱり良いです」
ワタクシ達の目の前には扉。
其処を開けば、皆が待っているであろうリビングだ。
扉越しに何人かの妹達の楽しそうな声が聞こえる。
鞠絵ちゃんは扉のノブに手を掛け、再びワタクシの瞳を見た。
「ねえ、春歌ちゃん。わたくしが此の後何と云うつもりか当ててみてください」
「・・・えっと・・・」
此の後と云うのは、扉を開いた後と云う意味だろう。
ワタクシは答えようとしたが、其れよりも早く、鞠絵ちゃんは扉を開いた。
矛盾しているような、そうでないような、矛盾した違和感を感じる。
だが、其れは扉が開いた瞬間の鞠絵ちゃんの笑顔と、リビングで待っていた三人の妹達の様々表情のお陰で吹き飛んだ。
可憐ちゃんの、不意を突かれて驚いた表情。
花穂ちゃんの、無邪気で素直な喜びの表情。
衛ちゃんの、カップを落としかけて焦る表情。
其れ等はワタクシの表情を知らず知らずに笑顔へ変えてくれた。
「ただいま、花穂ちゃん、可憐ちゃん、衛ちゃん」
鞠絵ちゃんがそう云うと、可憐ちゃんと衛ちゃんも笑顔になる。
「おかえり、鞠絵ちゃん!」
三人の声は揃って、元気良く鞠絵ちゃんを歓迎した。
「ところで、皆様は何をしていらっしゃったのですか?」
「花穂達ね、鞠絵ちゃんの為にパーティーの準備をしてたんだよ!」
ワタクシが問うと、花穂ちゃんがワタクシ達に駆け寄り、誇らしげに答える。
すると、衛ちゃんが花穂ちゃんのスカートの裾を軽く引っ張った。
「か、花穂ちゃん、其れはさくねえから口止めされて・・・」
「あっ!そ、そうだった!ど、如何しよう・・・」
丸聞こえなのだが、二人は困った顔をしている可憐ちゃんも加えて、秘密会議を始めた。
何を、と云う言葉をパーティーの何の準備を、と云う意味で使ったワタクシは、三人を前に、如何しようと苦笑した。
「わたくしに任せてください」
既に知っていると云う事を、如何に三人に伝えようかと考えていると、鞠絵ちゃんは小声でそう云った。
「パーティーをやってくれるんですよね。ありがとうございます、とっても嬉しいです」
鞠絵ちゃんの微妙な云い回しの意図に気付いたのか、三人ははたと動きを止めた。
「・・・もしかして、先刻さくねえと千影ちゃんに逢った?」
「ええ、逢いましたよ」
衛ちゃんの問いに、鞠絵ちゃんは笑いながらあっさりと答える。
鞠絵ちゃんが先刻のように少し遠回しの云い方をするのは、珍しいかも知れない。
結局、最後は率直に本当の事を云ったのだけど。
鞠絵ちゃんの、無闇やたらに嘘を吐かないところは、ワタクシは大好きだ。
「でも良かったぁ。可憐、咲耶ちゃんとの約束を守れなくなっちゃうのかと思っちゃった」
可憐ちゃんは胸を撫で下ろす。
約束、と云うのは秘密の内に準備する、と云うような内容なのだろう。
「でもそうだよね。可憐達が云わなくても、飾りとかで分かっちゃうもんね」
「あっ、そうだよね」
可憐ちゃんの言葉に、衛ちゃんが納得しながら頷く。
「申し訳御座いません。ワタクシが帰り際に鞠絵ちゃんを誘って、何処かに寄ってくれば良かったのですが・・・」
「ううん、春歌ちゃんは悪くないよぉ」
花穂ちゃんはワタクシの両手を、自分の両手で包んだ。
「今回は春歌ちゃんにも秘密の予定だったんだもん」
ああ・・・通りで今の今まで知らなかった訳だ。
皆がワタクシに、鞠絵ちゃんに毎日逢うように云っていた理由がやっと分かった。
「ありがとう御座います」
礼を云うと、花穂ちゃんは頬をほんのりと紅く染めた。
そして無言で向きを変え、衛ちゃんに駆け寄り、抱き付く。
突然の事に、衛ちゃんは慌てふためき、顔を真っ赤にした。
「か、花穂ちゃんっ!?」
「えへへ・・・衛ちゃん」
花穂ちゃんなりの照れ隠しなのだろうか。
でも、其の所為で衛ちゃんが照れる事になっていますよ。
そう云っても良かったが、抱き付かれた衛ちゃんも嫌そうではないので、云わなかった。
「ところで・・・」
鞠絵ちゃんはワタクシにしか聞き取れない程度の声で、囁く。
「当たってましたか?」
其の問いが先刻の事を訊いているのだと気付くのに、ほんの数秒必要だった。
ワタクシが先程、最初に鞠絵ちゃんが云うと予想した言葉。
其れは・・・
「・・・嬉しい事に、当たっていました。其れも、一句一語違えずに」
ワタクシは嘘を吐かずに、本当の事を云った。
信じる要素なんて何処にも無いけれど、鞠絵ちゃんなら分かってくれると云う、ある意味自惚れた想いがあった。
ワタクシの言葉を聞くと、ふっと鞠絵ちゃんの表情が変わった。
いや、先程からずっと鞠絵ちゃんの表情が、笑顔と云う言葉で表せる物だと云うのは変わらない。
ただ確実に、其処には喜びに近い何かが加わったのが分かった。
「ふふっ、お返しですよ」
鞠絵ちゃんは無邪気に云った。
何故か、そう思った。
ワタクシにとって、鞠絵ちゃんの分からないところは、まだ沢山あるんですね。
数日前までは絶望すらも感じた事実が、今は少し、いや、確実に楽しみに変わっていた。
ワタクシ達にはまだ、時間がある。
そして、約束がある。
今度の土曜日は鞠絵ちゃんと海へ行こう。
約束を果たす為に。
其れは約束を無くす為ではない。
新たな約束を創り出す為。
二人だけの、約束を…
「鞠絵ちゃん達、嬉しそうですね」
可憐ちゃんは微笑みながら云った。
と云っても、ワタクシ達の会話の内容が聞こえたわけではなさそうだ。
倖せの伝染。
ただ、其れだけの事。
そして其れだけ、喜ばしい事。
「やーん!おかえりなさいですのー!」
突然キッチンの方から響いたのは、可愛らしい白雪ちゃんの聲。
「ただいま、白雪ちゃん。今まで、何時もお見舞い有難う御座いました」
キッチンから此方へ駆けてくる白雪ちゃんに、鞠絵ちゃんは深々とお辞儀をした。
そう云えば、ワタクシがお見舞いに行けない日も、彼女は行っていたような気がする。
もしかすると、お見舞いに行った数は、ワタクシよりも多いのかもしれない。
少し羨ましくて、そして凄く嬉しかった。
鞠絵ちゃんを想ってくれる人がいると云う事。
皆の優しさを知っていたから、今更なのかもしれない。
でも、今更だからこそ、嬉しい。
「むふん…良いんですの♪鞠絵ちゃんが喜んでくれるなら、毎日だってお見舞いしたいくらいでしたのよ」
頬をほんのり朱に染め、白雪ちゃんは両手の人差し指の指紋を押し付け合いながら云った。
キッチンから、食欲を誘う良い匂いが漂ってくる。
「白雪ちゃんは料理を作ってらしたのですか?」
「はい。今日は姫、鞠絵ちゃんの為に腕に寄りをかけて頑張っちゃいますのよ!」
今夜のパーティーを隠れて用意していたのを忘れたのか。
あるいは先程の会話を聞いていたのか。
白雪ちゃんは隠さずに、腕捲りをして見せながら、そう云った。
「本当に有り難う御座いした。白雪ちゃん、其れに皆も」
鞠絵ちゃんはそう云い、頭を下げる。
皆は照れて其々の反応を表した。
「鞠絵ちゃん、未だお礼を云うのは早いですわ。だって此の後、パーティーがあるのですから」
「くすっ・・・そうですね」
ワタクシがそう云うと、鞠絵ちゃんは微笑う。
其の笑顔を見た途端、ワタクシの心にある、鞠絵ちゃんの為に何かをしたいと云う気持ちが膨れ上がった。
「あの・・・ワタクシに何かお手伝い出来る事は御座いませんか?」
ワタクシは白雪ちゃんに問う。
「むむむっ・・・そうね・・・」
白雪ちゃんは広くて可愛いおでこに人差し指を当て、唸った。
そして、パッと明るくなった顔を上げ、ポンと右手で作った拳で、掌を叩く。
「あっ、そうですの!お料理の盛り付けなんて、お手伝いして欲しいかもっ!」
「と云う事は・・・お料理自体はもう出来上がっているのですか?」
ワタクシの問いに、白雪ちゃんは首を横へ振った。
「いえ、もうちょっとですの。でも、ほとんど出来上がってますのよ」
そう云い、白雪ちゃんはキッチンの方へ数歩駆け、ワタクシの方へ向き直す。
「用意が出来たらキッチンに来てくださいですの」
「ええ、今すぐに向かいますわ」
ワタクシの言葉が終わると、白雪ちゃんは頷き、キッチンへ姿を消した。
「と云う訳です。ワタクシも準備をしたいと思いますので、鞠絵ちゃんはゆっくり待っていて下さいませね」
「はい、分かりました」
鞠絵ちゃんは頷く。
案の定、此の場には皆がいる。
少し経てば、千影ちゃんと咲耶ちゃんも帰って来るだろう。
いっぱい話をしてくれれば良い。
そうして、元気になった事を皆に、ワタクシに、改めて教えて欲しい。
だから。
「それでは、また」
「はい」
ワタクシは背を向け、キッチンへ向かう。
背中越しに、聲が聞こえる。
鞠絵ちゃんと可憐ちゃんと花穂ちゃんと衛ちゃんの聲。
そうか。
彼女達はワタクシよりも先に、鞠絵ちゃんと出逢っていたんだ。
だからこそ、四人の会話する聲はごく自然に聞こえた。
現実を改めて実感して、ワタクシは泣きそうになっていた。
おかえりなさい、鞠絵ちゃん・・・
そっと、聲にはせず、口だけで呟いた。
今は、せめて・・・





「あ、春歌ちゃん」
ワタクシがキッチンの扉を開くと、亞里亞ちゃんが小さな聲で呟いた。
「ただいま、亞里亞ちゃん」
「はい・・・おかえりなさい」
亞里亞ちゃんにそう云われてから、ワタクシは自分の云った言葉を思い返してみる。
そうか、ワタクシは帰って来たんだ。
何故か、亞里亞ちゃんの聲が幻想的に聴こえ、そう思った。
ワタクシは一体、如何したのだろうか。
帰ってきたなんて、当たり前の事じゃないか。
「白雪ちゃん、春歌ちゃんが来ました」
亞里亞ちゃんが冷蔵庫を漁っている白雪ちゃんに駆け寄り、報告する。
すると、白雪ちゃんは何も取り出さずに冷蔵庫の扉を閉めた。
「いらっしゃいですの、春歌ちゃん。エプロンの準備はよろしいですか?」
白雪ちゃんはいつもの調子に戻り、人差し指を頬に付け、そう云った。
「はい。其処に掛けてありますので」
キッチン内のエプロンを掛けるのに使われているフックから、自分のエプロンを外す。
丁度其の時。
―――ピンポーン
玄関のチャイムが鳴った。
「あ、咲耶ちゃんと千影ちゃんが帰ってきましたのね。じゃあ、姫はちょっと行って来ますの」
白雪ちゃんはそう云い、キッチンを後にした。
そう云えば、千影ちゃんと咲耶ちゃんは何を買出しに行ったのだろう。
ふとそう思いながら、ワタクシは両手でエプロンの両端を持つ。
そしてバサッと広げると、エプロンに染み付いた様々な匂いを嗅ぎ取った。
洋と和の食べ物やお菓子の匂い。
洋は白雪ちゃん。
和はワタクシ。
いつからそんな風に分担が決まったのだろう。
・・・分からない。
憶えていない。
そうなってから、随分時が経った。
時は早いのか遅いのか。
最近、分からなくなってくる。
そんな事を思いながら、ワタクシはエプロンを躰に当てる。
すると、亞里亞ちゃんがワタクシの後ろに回り、背中のボタンを留めてくれた。
「有難う御座います、亞里亞ちゃん」
ワタクシがお礼を云うと、亞里亞ちゃんはコクンと頷く。
そして、首を少し傾けて微笑む。
「どういたしまして」
・・・其の瞬間。
ワタクシは、言葉を失った。
瞬間的に混乱状態に陥ってしまった。
「あ、亞里亞・・・ちゃん?」
何とか思考回路を正常にし、聲を搾り出すように、名前を呼ぶ。
でも。
「春歌ちゃん、何ですの?」
亞里亞ちゃんは何も無いかのように訊き返してくる。
何ら変わりない笑顔。
聲。
だけど・・・
「だって・・・亞里亞ちゃん・・・泣いて・・・」
「・・・・・・え・・・?」
亞里亞ちゃんの表情が驚きに変わる。
まるで、今まで自分が泣いている事に気付かなかったかのように。
そして、亞里亞ちゃんは自分の頬に触れる。
表情は変わらなかった。
驚きの表情のまま、頬を伝った泪の跡をなぞる。
目尻から顎までのラインをゆっくりとなぞり終わると、彼女は俯いた。
表情は辛うじて見える。
眉の端を下げ、悲しそうな表情をしている。
泪には相応しい筈の表情。
だけど、違う。
彼女の表情と泪は、何の関係も無い。
云い切れはしないが、そう思う。
ワタクシが亞里亞ちゃんを見つめていると、キッチンの扉が開かれた。
「ただいま、春歌ちゃん、亞里亞ちゃん」
そう云って入ってきたのは咲耶ちゃん。
そして其の後に続いて、千影ちゃんと白雪ちゃんが入ってきた。
咲耶ちゃんは何も持っていなくて、後の二人は買い物袋を持っていた。
千影ちゃん、大変だったでしょうに・・・
買い物中、ずっと荷物を持たされている千影ちゃんを想像し、そう思った。
「おかえりなさい、咲耶ちゃん、千影ちゃん」
「おかえりなさい」
ワタクシが云うと、亞里亞ちゃんもおかえりを云った。
其の時にはもう、亞里亞ちゃんの泪は止まっていた。
「ただいま・・・・・・春歌ちゃん、ちょっと・・・・・・良いかな・・・・・・?」
床に荷物を置くと、千影ちゃんはワタクシを呼んだ。
「あ、はい。何でしょう、千影ちゃん」
「・・・此処では・・・・・・ちょっと・・・・・・」
千影ちゃんは視線を逸らし、そう云った。
「すみません、白雪ちゃん。手伝うと云っておいて何ですが、ちょっと行って参りますわね」
千影ちゃんが何を云いたいのかは分からないが、聞いておきたかった。
手伝うと自分から云い出した手前、白雪ちゃんには悪いと思いながらも報告した。
そして、ワタクシはエプロンを外す。
「はいですの。姫にはお構いなく」
「じゃあ、代わりに私が手伝ってあげるわね」
白雪ちゃんが頷くと、咲耶ちゃんはワタクシの手からエプロンを取る。
そして、其れを自分で身に着けた。
「それでは、お言葉に甘えさせて貰いますわ」
そう云い、ワタクシは会釈をしてキッチンを出る。
そしてワタクシは、キッチンを出て数歩のところで振り返ってワタクシを待っている千影ちゃんに駆け寄った。
「もう少し遠くに・・・・・・場所を変えよう・・・・・・」
千影ちゃんはそう云うと、また歩を進める。
ワタクシは素直に、千影ちゃんの後をついていった。
其の時、ふと亞里亞ちゃんの姿が脳裏に浮かんだ。
何故、亞里亞ちゃんは泣いていたのだろうか。
とても気になる。
なのに何故ワタクシは訊かなかったのだろうか。
亞里亞ちゃん自身に訊けば、すぐに分かる筈の事だったのに。
後で、訊いてみよう。
そんな事を考えていたワタクシは、此の後何が待っているかなんて、考えもしなかった。





「そ、其れは・・・要するに、如何云う事・・・なのですか・・・?」
背中に汗が一粒、背筋をなぞるように流れた。
背中を撫でる風が、妙に寒い。
耳の中、そして脳内では、千影ちゃんの云った言葉が木霊のように繰り返される。
其れが本当であるなら笑える状況ではないのに、意図とは正反対に、ワタクシの表情は笑っていた。
あまりに突然で、表情を戻す余裕もなく、笑顔の状態で凍り付いたのだ。
すると、ワタクシの不安を鎮めてくれようとしているかのように、千影ちゃんは優しく微笑った。
落ち着いて。
落ち着け。
どちらとも取れる、瞳の奥に微かに見えた千影ちゃんの想い。
気付けば何時の間にか、ワタクシは自然に落ち着きを取り戻し始めていた。
暫し無言で千影ちゃんの瞳を見つめていると、彼女の表情が突然曇った。
「・・・今に・・・・・・意味が分かるよ・・・・・・今回はもう・・・・・・避けようが無い事なんだ・・・・・・」
千影ちゃんは眉間に皺を寄せ、目を伏せる。
ワタクシの好きな千影ちゃんの綺麗な顔が、まるで泣き出す寸前のように、弱々しく歪む。
「永遠なんてモノは・・・・・・此の世には無いんだよ・・・・・・」
千影ちゃんはそう吐き捨てるように云った。
ワタクシではなく、まるで自分自身に云うように。
其の言葉は聞きたくない。
今は聞きたくない。
今だけは、聞きたくない。
「すまないね・・・・・・」
・・・謝ったのは、誰に対してだったのだろう。
其れは、ワタクシは知らない。
なら・・・千影ちゃんしか知らないのだろうか・・・?
・・・きっとそうだ。
ワタクシはそう信じたい。
千影ちゃんを。
自分を。
そして、鞠絵ちゃんを・・・





ワタクシは千影ちゃんよりも早く家の中に入り、リビングへ駆けた。
「鞠絵ちゃん!」
今誰よりも逢いたい人の名前を呼ぶ。
触れたい人。
触れられたい人。
存在を感じたい。
今、此処で。
だけど。
だけど、其の人はいない。
「は、春歌ちゃん・・・如何かしたんですか・・・?」
可憐ちゃんが、私の迫力に驚きながら、訊ねる。
「鞠絵ちゃん・・・鞠絵ちゃんはどちらへ・・・?」
ほんの少し走っただけなのに、息が荒くなっている。
疲れじゃない。
焦り。
頭に熱さを、躰に寒さを感じる。
「呼びましたか?」
背後に聞こえた聲。
聞きたかった聲。
ワタクシは振り向き、そして抱き締める。
「「わっ・・・」」
後ろから、衛ちゃんと花穂ちゃんの驚く聲が聞こえた。
でもワタクシは其方は見ない。
其の代わりに、今一番したい事を。
そう。
「鞠絵ちゃん・・・」
名前を、呼んだ。
「ど、如何か・・・したんですか・・・?」
「鞠絵ちゃん」
ワタクシは鞠絵ちゃんの質問を、もう一度名前を呼ぶ事で打ち消す。
「・・・・・・はい」
鞠絵ちゃんは返事をすると、ワタクシの背中に手を回し、抱き返してきた。
そして、ワタクシと鞠絵ちゃんの二人の目が合う。
ほんのわずかの距離。
鞠絵ちゃんはワタクシの視線から逃れる事は出来ない。
同時に、ワタクシも鞠絵ちゃんの視線から逃れる事は出来ない。
「約束を・・・果たさせてください」
「でも・・・もうすぐパーティーが始まってしまうようですけれど…」
其れは、知っている。
でも・・・
・・・でも?
『でも・・・・・・何なんだい・・・・・・?』
病院の廊下で千影ちゃんに云われた言葉を、思い出す。
「明日では、駄目でしょうか?」
明日。
そうだ。
明日で良いじゃないか。
何故、ワタクシは焦っているのだろう。
先刻思ったのに。
信じる、と。
ワタクシは、ウェルカムハウスに帰ってきてから持ち歩いていた四角い箱のボタンを、押した。





そして、パーティーは始まる。
パーティーと云っても、基本はお食事会のような物だ。
誰かが芸をする訳でも、歌を歌う訳でもない。
時々、あるけれど。
だけど、しなければいけない訳でもない。
とどのつまりは、ワタクシ達姉妹が集まる為の理由なんだ。
「ねえ、春歌ちゃん」
「何でしょう、花穂ちゃん」
パーティーが始まってすぐ、花穂ちゃんがワタクシの傍へ駆けて来た。
グラスを持っていたので、転んだら大変だと思い、此方からも近付く。
案の定、立ち止まる時にバランスを崩して転びそうになっていたので、支えてあげた。
「えへへ・・・ありがとう」
「どういたしまして」
此のやり取りは、何度目だろう。
鞠絵ちゃんに対して感じるのが、何もしてあげられない自分への劣等感だとしたら。
花穂ちゃんに感じるのは、他人を守る力が自分にあると感じられる・・・
そう、喜び。
何故だろう。
何故、劣等感を感じながらも、ワタクシは鞠絵ちゃんを選んだのでしょうか。
何故、鞠絵ちゃんを愛したのでしょうか。
・・・違う。
愛した、ではない。
愛している。
「あのね、春歌ちゃん。春歌ちゃんと鞠絵ちゃんって、其の・・・つ、付き合ってるの?」
タイミングが良すぎて、まるでワタクシの考えていた事を読んだかのように、花穂ちゃんはそう云った。
ワタクシは一瞬だけ、鞠絵ちゃんの方を見た。
鞠絵ちゃんは鈴凛ちゃんと話している。
何だろう。
鞠絵ちゃんは何か、箱のような物を渡されていた。
視線を戻し、花穂ちゃんの瞳を見て、ワタクシは云った。
「いえ、違いますよ」
そう、違う。
鞠絵ちゃんを独占しようなんて思っていない。
一番に願うのは鞠絵ちゃんの倖せだけれど、皆の倖せを願う点は変わらない。
自分から崩すような事はしない。
したくない。
其れに、ワタクシは分かっている。
此の愛が一定の線から前に進む事が出来ない愛だと云う事を。
咲耶ちゃんも、衛ちゃんも、千影ちゃんも、例外ではない。
目の前にある線を越える事が出来なくて、苦しんでいる。
だけど、其れでも。
彼女達は微笑っている。
「そっか・・・」
花穂ちゃんは考えるように首を傾け、微笑った。
そしてグラスに口を付け、ほんの少しだけ残ったグレープジュースを飲み干す。
「ありがとう、春歌ちゃん」
花穂ちゃんはそう云うと、ワタクシに背を向けて走っていった。
衛ちゃんの方へ。
そして其のまま、抱き付く。
「衛ちゃーん!」
「わっ、花穂ちゃん・・・」
衛ちゃんは前のめりになり、咥えていたフライドチキンの骨を落とした。
「花穂ちゃん、危ないわよ」
咲耶ちゃんは冷静に、花穂ちゃんが手に持っているグラスを取り、テーブルの上に置いた。
突然、三人の会話を見ている私の視界に、先刻まで鞠絵ちゃんと話していた鈴凛ちゃんが顔を覗かせた。
「どーしたの、暗い表情しちゃって」
「え・・・ワタクシ、暗い表情・・・してました?」
聞き返しながら、ワタクシは何気なく自分の頬に触れる。
「うーん、暗い表情って程暗いって訳じゃないんだけど・・・って、何云ってんだろうね、私。あはは」
鈴凛ちゃんは苦笑する。
「あ、多分、今の私みたいな表情だよ。先刻の春歌ちゃん」
そう云い、鈴凛ちゃんは自分の顔を指差す。
私は念の為数秒眺め、其の表情を口に出した。
「苦笑、ですか?」
ワタクシがそう云うと、鈴凛ちゃんは目を少しだけ大きくして驚いた。
「えっ、私苦笑いしていた?」
「ええ」
答えながら、ワタクシは鈴凛ちゃんの様子が面白くて、微笑んでいた。
「っかしーなー、普通に笑ってたつもりなんだけど・・・」
鈴凛ちゃんは眉を顰め、何度か首を傾げる。
そして何かに納得し、頷いた。
「あ、でも、苦笑なのかな・・・あ、私じゃなくて春歌ちゃんの話ね」
「苦笑、ですか・・・」
私は口に出してみて、自分に云い聞かせる。
「うん、多分、だけど」
泪は誤魔化せても、表情は誤魔化せませんね。
特に、ワタクシは。
心情が表情に出易いと云う事は十分自覚していた。
其れを直したいとも思っていた。
だからこそ、今少し悔やんでいる。
鈴凛ちゃんを心配させてしまったから。
「ところでさ・・・」
鈴凛ちゃんは其の一言で話題を変えた。
ワタクシの表情を見て、変えてくれた、のかも知れない。
「はい、何でしょう?」
ワタクシが返事をして鈴凛ちゃんの瞳を見つめると、鈴凛ちゃんは少しだけ俯いた。
其処でワタクシはやっと気付いた。
鈴凛ちゃんは目を合わせるのが苦手なのか。
・・・でも、此の前まではそうでも無かった筈。
此の前・・・そう、三日前までは。
「あのさ・・・その・・・」
鈴凛ちゃんは何度か云い掛けて、そして何度も止めた。
沈黙。
ふと、鈴凛ちゃんの瞳が私の瞳を見つめる。
「春歌ちゃん、鞠絵ちゃんの事・・・好き?」
ワタクシは其の問いに、少なからず驚いた。
こんな事を聞かれたのは初めてだった。
其れも、こんな面と向かって。
其れに多分、ワタクシの答えは鈴凛ちゃんも分かっているのだと思う。
ワタクシは照れ易い性質の所為で、鞠絵ちゃんへ対しての気持ちは皆に知られていた。
主に咲耶ちゃん。
彼女には何度も恋愛話をさせられた。
明らかに、ワタクシの恋愛感情の対象を知っている上で、だった。
其れに、ワタクシに直接其の話題を振って来た事は無かったけれど、千影ちゃんも知っていただろう。
そして多分・・・鞠絵ちゃんも。
「ワタクシは・・・」
答えようとした其の時。
―――ピンポーン
玄関のチャイムが鳴り響いた。
全員の会話が一瞬止まる。
「あ、可憐が出ますね」
可憐ちゃんがそう云うと、皆の会話は再開された。
ただ、ワタクシと鈴凛ちゃんを除いて。
如何しても話を切り出せない。
ワタクシは視線を泳がせ、逃げ道を探す。
多分、此の場ではもう答えを云う事は出来ないから。
暫らくそうしていると、視界の端に可憐ちゃんが戻ってきたのが見えた。
「鞠絵ちゃん、お客さんですよ」
可憐ちゃんは嬉しそうに鞠絵ちゃんを手招きした。
鞠絵ちゃんが近付くと、耳打ちをして、可憐ちゃんはワタクシの方に来る。
「春歌ちゃん」
ワタクシの名前を呼んだのは、可憐ちゃんではなく、鞠絵ちゃんだった。
「一緒に行ってあげてください」
鞠絵ちゃんに続いてそう云ったのは、可憐ちゃん。
ワタクシは一瞬戸惑い、鈴凛ちゃんの方を見る。
すると、鈴凛ちゃんは微笑んだ。
「先刻のは忘れて。良いよ、いってらっしゃい」
そう云い、ワタクシを無理矢理廊下の方へ向かせ、背中を軽く押した。
「でも・・・」
「良いから良いから」
ワタクシに反論の余地を与えずに、鈴凛ちゃんは其の言葉を境に、背中を押すのを止めた。
自分の足で向かう以外に、道が無くなる。
鞠絵ちゃんが待っている。
行かなければ。
玄関で待っている人ではなく、鞠絵ちゃんの元へ。





玄関にいた人物を見た瞬間、鞠絵ちゃんは喜びから息を飲んだ。
「ひばりちゃんっ!」
「久し振り、鞠絵ちゃん」
微笑み、そう云ったのはひばりさん。
鞠絵ちゃんと同じ病気を持ち、同じ療養所で入院していた女の子。
真っ赤なチューリップを持っている。
此処に来た目的は明らかだ。
でも、鞠絵ちゃんは訊いた。
「でも、如何して此処に・・・?」
「約束したから・・・『また逢おうね』って」
親友。
鞠絵ちゃんは彼女の事をそう云った。
少なからず感じた嫉妬。
ワタクシは鞠絵ちゃんの親友にはなれない。
家族だから。
其の時のワタクシは、親友と家族の重さを比べようとしていた。
そして、親友と云う言葉を重く感じていた。
・・・でも。
今はそうは思わない。
決して軽く考えている訳では無い。
ただ、比べるべきでは無い、と云う事を知った。
比べなくても、分かる。
親友も家族もとても大切で、重い存在。
必要なのが愛情だと云う事は変わらない。
関係。
存在。
そうではなくて、ただ単に想う力があれば良い。
「お久し振りです、春歌さん」
ひばりさんは此方に向きを変え、軽く会釈をした。
「此方こそ、ひばりさん」
ひばりさんとワタクシは幾度となく会話を交えた事はある。
鞠絵ちゃんがワタクシに一緒に来るように促したのは、そう云う経緯があるからだ。
彼女と話すのはとても楽しい。
何故なら、ワタクシ達の共通点は鞠絵ちゃんだからだ。
当然、交わされる話題も鞠絵ちゃんの事になる。
ワタクシが逢いに来れない時の鞠絵ちゃんを、彼女は知っている。
「退院おめでとう、鞠絵ちゃん」
そう云い、ひばりさんはチューリップの花束を鞠絵ちゃんに渡す。
鞠絵ちゃん其れを受け取り、抱き締める。
「ありがとうございます・・・本当に、ありがとう」
鞠絵ちゃんは俯く。
泣いているのだろうか。
彼女の泪は悲しみによる物では無い。
だからワタクシにも、伝わってくる。
ワタクシは拒絶せずに受け入れられる。
其の喜びを。
「あ・・・わたし、もう行かなきゃいけないから」
ずっと微笑んでいたひばりさんが、両足を揃えた状態から、右足を少し後退りさせた。
すると、鞠絵ちゃんは顔を上げる。
服の袖で拭ったようだが、其れでも頬が濡れていた。
「あの・・・また、逢えますか?」
問いに、ひばりさんは一瞬驚いた表情をした。
そして、少し目を細める。
「・・・うん、逢えるよ」
其の表情は何とも云い難い表情だった。
憂い、と表現される物なのだろうか。
「でも、わたしから鞠絵ちゃんのお家に来る以外には、出来れば逢いたくないな」
何故今の会話で彼女がそんな表情をするのか。
そんな言葉を云うのか。
ワタクシには不思議でしょうがなかった。
「如何云う・・・意味です?」
鞠絵ちゃんもワタクシと同じ心情のようで、聞き返す。
彼女の表情の理由。
言葉を発した理由。
次の言葉で、其の双方の理由が分かった。
「わたし、またあの療養所に居るから」
「・・・え・・・そ、其れ、って・・・」
鞠絵ちゃんの表情が凍り付く。
一瞬、大気が静まり返ったように空間其の物から音が消えた。
廊下の向こうからは、姉妹達の聲が聞こえる。
楽しそうな其の聲は、今此の場からは遠く離れた別の空間から聞こえているような錯覚が起こった。
「再発しちゃった・・・病気・・・」
「そんな・・・」
沈黙を破る、諦めたようなひばりさんの言葉。
思わず聲を上げたのは、ワタクシだった。
忘れていた。
此の病気は再発する物だと云う事を。
剣道の練習で素人の力一杯振り下ろされる面を受けたような、強烈な衝撃を受けたような感覚。
「ひばりちゃん・・・」
鞠絵ちゃんは困惑の表情で、ひばりさんを見つめる。
苦笑し、ひばりさんはワタクシ達に背を向けた。
「じゃあ、行ってくるね」
乾き切らない鞠絵ちゃんの頬に、再び泪の雫が伝う。
今度は悲しみの泪。
其れを見ない振りするかのように、ひばりさんは玄関の扉を開ける。
「また逢いましょう、ひばりさん」
ワタクシは鞠絵ちゃんの代わりにそう云った。
扉が閉まり、姿が見えなくなる瞬間に、ひばりさんは振り向いた。
「鞠絵ちゃんの事、倖せにしてあげてくださいね」
―――バタン・・・
扉の開く音だけが、妙に現実的に聞こえて、嫌だった。
また、音が消える。
先程まで聞こえていた姉妹達の聲も、耳鳴りのようにしか聞こえない。
「春歌ちゃん・・・ワタクシ・・・」
「良いんですよ、鞠絵ちゃん」
ポロポロと泪を流し続ける鞠絵ちゃんを、ワタクシは抱き締めた。
鞠絵ちゃんはまるで、一度捨てられて、別の人間に拾われた犬のように、ワタクシに縋った。
口唇を震わせ、泣いている。
貴女は・・・優し過ぎるんです。
「貴女の所為じゃないんです。貴女が負い目を感じる必要はありませんよ」
ワタクシには鞠絵ちゃんが泣く理由が分かる。
鞠絵ちゃんが微笑むのに理由は要らない。
だけど。
理由無く人間は泣かない。
其の理由が、分かる。
持てる者が持たざる者に感じる、精神を蝕むような罪悪感。
其れを今、鞠絵ちゃんは感じているんだ。
おそらく、生まれて初めて。
「でも・・・でも・・・」
ワタクシは、ワタクシの服を強く握って泣きじゃくる鞠絵ちゃんを抱き締める力を強める。
すると、鞠絵ちゃんは何も云わなくなり、ただ強くワタクシを抱き締めた。
「鞠絵ちゃん・・・もう一度、云います。いえ、云わせてください」
ワタクシの心には、決意があった。
次の約束へ。
次の次の約束へ向かう為に。
だから今、約束を果たそう。
今の鞠絵ちゃんならば、此の気持ちを分かってくれる。
「ワタクシと鞠絵ちゃんの約束を・・・果たさせてください・・・」
一瞬の間を置き、鞠絵ちゃんは答えた。
「・・・・・・はい・・・」










『鞠絵ちゃんは・・・・・・もうすぐ、死ぬよ・・・・・・』










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