Mizerable



いつからだろう。
錆び付いた歯車が歪み始めて、やがて噛み合わなくなった運命は崩れる。
音を立てない其れは、気付いた頃にはもう跡形も無かった。
事実は私に知らせていた。
もう戻れないのだと。
其の時からずっと・・・
私の時は止まったまま。



「来てくれると思ってたわ」
私は微笑む。
若葉色の草原。
風は春を運び、萌え出る草木の息吹を感じさせる。
「珍しいですね、姉上様がわたくしを呼んでくれると云うのも」
私の妹、鞠絵は白いワンピースに縁の広い白いキャペリンを被って私に微笑み返す。
「ええ、私は待つ方が好きなのよ」
今日は久し振りに鞠絵に逢えた日だった。
鞠絵が自宅の近くの病院ではなく、高原の診療所にお世話になり始めたのはもうずっと前の事。
鞠絵に逢いに来るのは、最初は二週間に一回。
其の内に一ヶ月に一回。
今は大体二ヶ月に一回くらいだろうか。
出来る事なら毎週でも逢いに来たい。
此方に引っ越してしまおうかと思った事もある。
でも、其れでは駄目なんだ。
「いつもお手数掛けます」
「其れは云わない約束よ。次私に頭なんて下げたら怒るわよ」
私は強めに云いながら、軽く睨み付ける。
でもきっと、笑っているんだろうな。
「分かりました」
鞠絵も、微笑っている。
私はずっと、独りで待つのは嫌いだった。
でも、もう慣れてしまった。
哀しむ事なのかもしれない。
だけど私は、感覚が麻痺してしまった事を感謝している。
切なさに胸が張り裂けそうになる苦しみから救ってくれたのだから。
今では、待つ事を楽しむ余裕が出てきたくらいだ。
「隣、良いですか?」
鞠絵の問いに私は頷く。
私の隣に、鞠絵はスカートを押さえながらゆっくりと腰掛けた。
私は遠くに見える診療所を眺める。
高原に来るのは何度目だろう。
説明を受けたり手続きやらで四回・・・お見舞いを含めて大体二十回前後だろうか。
思ったよりも多くは来てないのか。
もう見慣れた場所に思える。
其れくらい、此処の時間の流れはゆっくりに感じた。
「今日は如何したのですか?」
鞠絵は私の横顔を見つめていた。
「如何したと思う?」
私は何となく、意地悪く笑う。
鞠絵は少し考え、そして首を振った。
「分かりません」
私は一つ息を吐く。
「理由なんて無いわよ」
私の言葉に、鞠絵は首を傾げる。
理由は、無い。
何となく気が向いたから。
最近逢いに来てないかな、と思っただけ。
「姉が妹に逢うのに理由が必要?」
少し格好付けて、何処かで聞いた事のある様な台詞を云ってみる。
ああ、結構恥ずかしいものだわ。
私は照れ隠しに笑う。
「戻りましょう。外はまだちょっと寒かったわ」
本当はお医者さんに、あまり外にいさせないで欲しい、と云われたからだった。
でも、其れを悟られない様に私は鞠絵の手を引く。
柔らかな手は温かで、私は思わず強く握り締めそうになる。
いけない。
「はい、分かりました」
鞠絵は無邪気に笑った。
幼い頃と変わらない笑顔。
何も、何も変わらない笑顔で。



二人で病室に戻り、鞠絵をベッドに座らせる。
そして、サイドテーブルの横に重ねてあったパイプ椅子をベッドの脇に開いて置いた。
「窓、開ける?」
椅子に座る前に私が問うと、鞠絵は頷く。
床も天井もベッドもカーテンも白い中、窓の外だけが色彩に溢れていた。
其処を開け放つと、風の一つも無かった病室に動きが生まれる。
「ありがとうございます」
開いておいた椅子に座ろうと椅子に近付くと、手首を引っ張られた。
「すみません、ちょっと良いですか?」
鞠絵はわざわざ改まって、話をする許可を求める。
何だろう。
こう云う鞠絵はあまり見た事が無かった。
いつも微笑んでいたのに。
今の鞠絵の表情からは微笑みは一切消えていた。
「次は・・・」
其処で鞠絵は俯く。
ゆっくり息を吸い、そして吐いた。
「次はいつ、逢いに来てくれますか?」
私の手首を握る鞠絵の手に力が加わる。
其の瞳は真っ直ぐに私を見つめて。
私は思わず目を逸らした。
「・・・ちょっと、お手洗いに行って来るわね」
私は話を逸らし、そっと鞠絵の手を離す。
一瞬、彼女の手が宙で泳いだ。
其れは気の所為だったのだろうか。
何処か道に迷った子供の様に、不安で寂しそうに見えた。
きっと、気の所為。
ほら、鞠絵は微笑ってる。
「いってらっしゃいませ」
私は鞠絵に背を向ける。
白い扉を開き、やはり白い廊下へと足を進め、再び扉を閉める。
私は其の場で俯き、奥歯を噛み締めた。
『ええ、私は待つ方が好きなのよ』
私は・・・
私はそんなに強い人間じゃない。
感覚が麻痺した?
そんなんじゃない。
逃げたかっただけ。
苦しみから逃れるにはこうするしか思い付かなかった。
『理由なんて無いわよ』
違う。
寂しかった
淋しかった。
切なかった。
恋しかった。
苦しかった。
だから。
だから、私は逢いに来たのに。
私はまた此の気持ちを云えないで居る。
鞠絵がいなくなってから、心から笑った事も、怒った事も無かった。
友達と遊んでも、笑顔の裏で物足りなさを感じていた。
鞠絵に逢いたくて、話したくて、触れたかった。
『ずっと独りで寂しかった。貴女に逢いたかった。一緒にいたかった』
そう云って、彼女を抱き締められたら、どれだけ楽になれただろう。
此処まで近くに来たのに。
こんなにも貴女が遠い。
だって、私は姉妹だから。
世界で誰よりも近い存在。
でも、決して一緒になる事は許されない存在。
離れ離れにならないと、駄目になると思った。
私が。
そして、やがては鞠絵をも駄目にしてしまうだろう、と。
でも、何も変わらなかった。
遠くになればなるほど、私の心は鞠絵を求めた。
逆に今の様に近くに来ると、今度は抑えられなくなりそうな自分に不安を覚える。
何故人間は他の者を愛さなければいけないのか。
何故、彼女なのか。
そんな事はどんな本を読んでも載ってなんていなかった。
ただ知る事が出来たのは、自分が普通ではないと云う事だけだった。
私は胸を押さえて虚空を見つめる。
いつまで耐えれば此の苦しみは終わるの?
もう、抑え切れなくなりそう。
感情が。
此の言葉が。



『アナタガ、スキデス・・・』



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