「ちっ・・・」
しくじった。
一瞬・・・
一瞬だけ視線を真弓に向けた為に、鬼に逃げられた。
生憎、今あたしが駆けている森は、比較的街に近かった。
非常にマズイ状況だ。
狩られる側に回った事に気付いた鬼は何をするか分からない。
偶々最初に目についた人間を盾にする事もあるだろう。
気が触れて鬼特有の破壊衝動に身を委ねて、殺戮を繰り返すかもしれない。
そうなってはいけない。
そんな事になって欲しくない。
人間が殺されれば、其れに近しい人間は鬼に憎しみを抱く。
そして、其の強大過ぎる憎悪故に鬼になってしまう。
憎しみの、悲しい螺旋が巡ってしまわぬ様に・・・
やがて、木々はあたしの視界から姿を消し、人間の支配する世界の象徴とも云えるアスファルトが現れる。
一筋、あたしの額を汗が伝う。
走った事からの新陳代謝ではなく、焦りがあたしの心を蝕んでいた。
無意識に歯軋りをした次の瞬間。
「見つけたッ・・・!」
あたしは地を強く踏み、そして跳ぶ。
四本足には成れないものの、腐っても観月の民。
幼少時から走る事を学んだあたしから、鬼は逃げ切れずに其の姿を捉えられた。
くるり、とあたしの体は宙で前転し、体勢を整えた上で再び地に足を着ける。
「逃がさないよ」
いや、逃げられない、か。
あたしは口には出さず、訂正する。
この鬼は成った鬼、即ち元人間なのだ。
あたしからは逃げられる道理が無い。
「浅間・・・古の時から数々の同胞を殺めて来た裏切りの鬼・・・若杉の犬め」
裏切りの鬼。
そんな事、人間には考えられない程の過去から云われ続けてきた。
今更、痛くも痒くも無い。
あたし達を裏切った若杉なら兎も角、真弓に切られるような鬼に成り下がらなかった事をあたしは誇りに思っている。
「鬼に成ったあんたに云われる筋合いは無いね。此処に至るまでに一体何人の人間を手にかけた?」
鬼は追い詰められたこの期に及んで、何故か余裕の表情を浮かべ、肩を竦める。
「そんな事、覚えてないわ。でも、一つだけ云える」
あたしは、鬼をほぼ確実に捕らえられると、気を抜いていたのかもしれない。
微かな物質の擦れる音に気付く事が出来なかった。
或いは、鬼でありながら下等な鬼の邪視に惑わされたのか。
ほんの数秒だけ、鬼の言葉以外の何の音も聞こえてこなかった。
そして・・・
「ついさっき、一人の人間を鬼にしておいた」
其の時は訪れた。
耳の直ぐ傍で聞こえる、骨の砕ける音と肉の潰れる音。
「「あアアああアァアぁッっ!!!!」」
酷く耳障りな、普通ではない叫び声。
絶叫。
其れは背後から聞こえた物でもあり、そして、あたし自身の声でもあった。
其の声が耳を劈く事で、あまりの激痛に意識を失いそうになるのを堪える。
鈍器を叩き付けられたかの様に、肩の骨を砕かれた。
あたしは肩を押さえながら振り返り、もう一人の声の主の姿を捉える。
「・・・っ、人間!?」
角も生えていない。
瞳の色も常人の其れ。
其処に居たのは紛れも無く、人間であった。
しかし、其の身に纏う気配だけが違った。
狂っていた。
あたしは一旦身を引き、鬼を睨み付ける。
「貴様、この人間に何をした!?」
「先刻云った通りよ。其の人間には私の血を飲ませた。そして、鬼にした」
最悪の状況だった。
真弓とあたしで二匹の鬼を其々分担して捕らえる筈が、結果的に三匹になってしまうとは・・・
更に、あたしは深い傷を負ってしまった。
観月の民とは云え、岩長の加護を受けていないあたしには、自らの傷を即座に癒す能力は無い。
そして、何より・・・
「アハハハハッ、あまりの破壊衝動に我を忘れているようだけれど」
まるで勝利の宣言をするかの様に、鬼は高らかに笑う。
其れを音色に踊るかの様に、人間・・・いや、新たな鬼は再びあたしにとびかかってくる。
あたしには避ける事しか出来なかった。
この人間は鬼にされたものの、何の罪も犯していない。
だから・・・
「善鬼の貴女に人間を殺める事が出来て?」
さもおかしそうに鬼は笑い続ける。
この鬼にとっては、生まれついての鬼でありながらも人を殺められないあたしは愉快な生き物なのであろう。
「如何すれば・・・如何すれば良い・・・?」
あたしは誰に問うでも無く、呟く。
鬼の笑い者になっている間はまだ良い。
しかし、再び鬼が逃げ出したら・・・今度は追い付けるか如何か・・・
不安要素を頭に浮かべた、其の瞬間。
「こうすれば良いのよ、サクヤ」
そんな声が聞こえ、あたしに飛び掛ろうとしていた影の動きが止まる。
鬼もあたしも、虚を突かれていた。
其の場の空気の流れが全て止まったかの様に無音になった。
・・・やがて、時は動き出す。
ドサッ、と云う音と同時に、アスファルトに首が落ちた。
鬼にされてしまった、人間の、首。
残された体からは、壊れた水道の様に勢い良く鮮血が飛び散っていた。
そして、其の向こう側に姿を現したのは千羽党の当代鬼切り役、千羽真弓だった。
「なっ・・・」
思わず声を漏らしたのは鬼だった。
あたしは声すら出す事が出来なかった。
「其処の貴女、私の相棒によくも怪我を負わせましたね」
優しげな、おっとりとした顔つきを怒りに歪めるでもなく、真弓は笑顔のまま鬼と対峙する。
其れは真弓が本気で怒っている証拠に他ならなかった。
「千羽党が鬼切り役、千羽真弓が千羽妙見流にてお相手します」
彼女は武曲の構えを取りながら、まるで剣道の試合の様に、決められた挨拶を告げる。
そして、何の躊躇も無く、恐怖に打ち震える鬼に切り掛かる。
舞うかの様に、幾度も幾度も。
舞っているのは切り刻んでいる真弓自身でもあり、続け様に切られている鬼でもあった。
「奥義・桜花乱舞!」
真弓がそう口にした途端、まるで桜花が散り逝く様に鬼の体から真っ赤な血液が飛び散る。
「うあああああああああああっ!!!」
鬼の口から、溺れているかの様な泡の弾ける音と共に絶叫が搾り出された。
其れは断末魔の叫びだったのだろう。
やがて舞いは終わり、真弓は維斗の刃を鞘に収め、あたしの傍へ歩み寄る。
其の後ろで倒れる鬼の最期を見届ける事もせずに。
「サクヤ、大丈夫?」
其の言葉に、あたしは我に返り、真弓に怒鳴る。
「何で人間を切ったんだ!あの人間は何の罪も犯していないじゃないか!」
彼女が人間を切らなければ、あたしは無事では済まなかったかも知れないのに。
でも、あたしはそう云っていた。
云いながら、涙が止まらなかった。
「・・・此処に来る途中、あの子の友人らしき人間の死体を見つけたわ」
真弓は怪我をしていない方のあたしの肩に手を置き、宥める様に云った。
「え・・・?」
あたしは思わず訊き返す。
「あの子は既に人を殺めてしまったの。そして、やがて我に返った時に自らの罪に押し潰されてしまう」
「そんな事・・・分からないじゃないか!罪に耐えられる人間だっている・・・!」
そう、真弓の様に。
きっと、一番傷付いているのは、同胞である人間を切る事になってしまった彼女だろう。
其れでも、彼女はあたしの為に・・・あたしを護る為に・・・
「どんな理由であれ、鬼となってしまった人間は切らなければいけない。其れが・・・千羽党の教えなの」
そう云い、彼女は目を伏せた。
彼女は、優し過ぎる。
あたしを護る為に、其の言葉を云わない様にしている事は鈍感なあたしにでも分かった。
もう、其れ以上彼女を責める事は出来なかった。
「・・・・・・ありがとう」
「どういたしまして」
そう言葉を交わし、あたしと真弓は人目につかない様に帰路についた。




サクヤと真弓が和解し合い、真弓がまだ鬼切り役の座から退いていない時期の話。
真弓がサクヤの事を何と呼んでいるかが公開されていないので、脳内設定で。

     
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