ロザリオと薔薇





千影の家。
其の中で最も明るい部屋。
大きなソファのあるリビングで、私と千影は二人きり。
私は千影の頬に両手で触れ、其の可愛い顔を包み込む。
千影の、微かに開いた口唇の隙間から、艶やかな吐息が漏れ、私の頬を撫でた。
「千影」
「咲耶、くん……」
私が呪文のように其の名前を呼ぶと、千影は返事の代わりに私の名前を呼んだ。
先の言葉の次の言葉を紡ぐ。
「確かに貴女は、私のとても大切な妹の一人よ。だけど、ね…」
頬から右手だけを離し、千影の肩に掛かった、シャンデリアの光で照らされた綺麗な紫の髪を軽く一束掬う。
千影が一瞬躰を強張らせると、紫の髪は重力に従って私の指の間を滑り落ちた。
私は其の髪に、そっと口付けをする。
甘い、果実のような匂いを嗅覚が感じ取る。
「…良い匂い…」
耳元でそう囁くと、千影の白く張りのある頬は赤くなった。
私が誉めたのは、甘そうな匂いでも、美味しそうな匂いでもない。
千影の匂いだから、誉めたのよ。
「さ、咲耶くん……」
私の言葉に照れているのか、焦らされるのが我慢出来ないのか、千影はすぐに話を戻したがった。
肩を抱いたり、背筋を指先で撫でたりしながら、もっと焦らして意地悪するのも楽しそうだと思う。
でも、千影の上目遣いの視線の前では、私の方が先に耐えられなくなりそうだとも感じた。
だから、私は話を戻す。
でも、ただ戻すだけだと負けたような気がして、何となく悔しい。
柔らかい耳たぶを口唇で挟んだり、息を吹き掛けたりして、千影の喘ぐ聲を聞いてから。
再び耳元で囁く。
「貴女だけは、特別なの。愛しているわ…千影…」
胸が高鳴る。
いや、既にそうだったかもしれない。
だが、私は其の言葉を口にした瞬間に、私は自分の鼓動が速まっている事に気付いた。
そんな事すら分からなくなるくらい、今私の目の前は愛で溢れていた。
「そ、その……な、何と云ったら良いのかな……嬉しいよ……咲耶くん……」
千影は困ったような、照れているような、おそらくは両方含んだ可愛い表情で微笑む。
「……咲耶…くん……わ、私も……」
千影の鼓動が、更に早くなるのが分かる。
ほら、自分と同じ変化でも、千影の時はすぐに気付ける。
千影の、そして私の胸の奥で、想いが膨れ上がるのが分かる。
だが、いや、だからこそ。
私は千影の口唇の前に人差し指を出し、言葉を消させた。
千影は此方まで顔が赤くなってしまう程、恥ずかしそうに歪んでいた。
目の端には、うっすらと泪まで浮かべて。
「千影…無理しなくて良いわ」
千影が其の言葉を、心の準備も出来ていないのに云おうとしているのはすぐに分かった。
「貴女の気持ち…言葉が失くても、分かっているから…」
そう云い、千影の躰を抱き締めると、千影はぎゅっと、私を抱き締め返した。
「で、でも……君の気持ちに応える為に………今、言葉に出来なければ……私はきっと後悔すると思う……」
千影は私の右手を左手で握り、導くように自分の胸に触れさせる。
手の平に感じる、柔らかい感触。
早く高鳴った千影の鼓動。
私が少し手の平に力を加えると、千影の顔が改めて紅潮した。
そして千影はブルッと躰を小さく震えさせ、凄艶な吐息を吐き出した。
「だ、だから……」
「……分かったわ。私も千影の気持ち、受け止めてあげるわ…さあ、来て…」
私は瞳を閉じる。
なされるがままになる為に。
なすがままになるように。
千影の左腕が私を優しく抱き寄せ、右手が私の頬に触れる。
「咲耶くん……」
「千影……」
見つめ合い、そして其れがあるべき形になるかのように、自然に口唇を…





「…何をやっているんだ……君は……」
「きゃっ!ち、千影…」
私の躰が反射的に、大げさだと思ってしまう程に跳ねた。
視線をゆっくりとリビングの入口に移すと、其処には千影が呆れた顔で私を見ていた。
冷汗が、背中を伝う。
変なところを見られて嫌われてしまったかも……なんて、そんな事は全く思わなかった。
ただ。
夢から無理矢理引き戻された感によって、ガッカリしたのと、ちょっとの不満があった。
「何やら……勝手に夢見ていたようだが……夢は此処で終わりにするよ……」
千影がそう云うと、私の目の前のもう一人の千影は、粉が落ちるように音もなく床へ崩れる。
そして、其の過程で黒一色に染まり、もう一人の千影だった物、千影の影は千影の足元まで這っていった。
影は本来あるべき形へ、戻ったのだ。
「人の影を使って遊ぶのは……止めてくれ……」
自分の影の一連の還元を見終えた後、千影は額を押さえ、少し俯いて溜息を吐いた。
其の吐息は、先刻千影の影が喘いだ物と完全に同じ物だった。
やっぱり、可愛い。
いや、綺麗と云った方が千影は嬉しいんだろうか。
今そう云ったら、喜んでくれるかしら。
でも、照れてくれるのは前者よね。
そんな事を思っていると、顔を上げた千影と目が合った。
すると千影はわざとらしく視線を逸らし、宙で泳がせる。
私はそんな様子に微笑みを浮かべ、ふと思った事を口にしてみた。
「あ、もしかして千影…妬いてるの?」
―――ガチャッ
陶器のぶつかり合う音が響く。
千影は危うく、持っていたティーポットとカップが二つ置かれたトレイを落とし掛けた。
「なっ……何を………突然……」
うろたえながら、必死でポットを抑える姿に、私は思わず微笑った。
「うふっ、照れてる、かっわいいーっ♪」
そう云うと、千影は拗ねたように、視線だけではなく顔を背けた。
「と、ところで……」
一つ咳払いをし、千影は私の瞳を見つめた。
千影の紫の瞳。
其処に映っている、私の紫の瞳。
互いに重なり合い、色は限りなく黒い紫になる。
其の、紫の真剣な眼差しに、私は思わずドキッとしてしまう。
「な、何…?」
ああ、もう、恥ずかしい。
何を今更照れているのだろう。
相手が千影、だから…?
ダメよ、ダメ。
ペースを崩しちゃダメ。
「其れは……此方の台詞だよ……君こそ、何の用で……私を訪ねて来たんだい……?」
千影は相変わらず吊れない事を云う。
続いて、二つのティーカップをテーブルに置いて、ポットから紅い液体を注いだ。
そしてソファの私の隣に座った。
私は砂糖も何も入れず、紅茶を啜る。
其れ以前に紅茶に入れる物は何も用意されていないのだけれど。
「あら、美味しい…種類は何なの?ダージリン系かしら?」
「咲耶くんっ……」
千影は少し強めに、話題を逸らそうとした私の名前を呼んだ。
視線は真っ直ぐ私に向けられている。
目が合っても、普段のように逸らす事はしない。
今、千影の視界には私しか居ないんだ。
だからこそ、そんな状況で私は云った。
「私が千影に逢うのに、理由が必要なの?」
云われた千影は、驚いて私の顔を先程以上にジッと見ている。
在り来たりな殺し文句だと思ったのだけれど。
千影には効果的みたい。
あらヤダ、可愛い。
でも…今だ。
私は千影へアタックする為のチャンスを、獲物を狩る獣のように、目敏く見付けた。
「……ね、必要…?」
もう一度問い、そしてソファの座っている位置をずらし、千影に躰を密着させる。
腕なんて組んじゃったりして。
「あっ………いや……そんな事は……無いのだけれど……」
躰を離そうとする千影の腕を、私はシッカリと抱き締めた。
ウフフッ…逃がさないわよ、千影。
「其れに、先刻云ったでしょう?私は此の家にお泊まりさせてもらいに来たの」
此の、と云うのとに合わせて、私は床の紅のカーペットを指差す。
荷物も勿論持って来てある。
今は玄関に置いてあるけれど。
普段より多めの荷物について訊ねられた時、私は『女の子に必要な物』と答えた。
別に其の時に嘘は吐いていない。
嘘を吐いたのは今だ。
『お泊まり』なんて、一言も云っていない。
でも、先ず指摘されるべき其の点を、千影は指摘しなかった。
其の代わりに…
「其れは………ダメ、だよ……」
返って来たのはそんな答えだけだった。
「如何して…?私のお願い、聞いてくれないの?」
冗談めいて云いながらも、少なからずショックは受けていた。
何にせよ、断られたと云う事実。
お泊まり出来るか否かではなくて、断られたか否かの方が私には重要だった。
其のショックを自分にすら隠すように、千影と触れる躰の面積を増やす。
千影は視線と共に顔を逸らした。
「……咲耶くん……熱い……」
「私は寒いの」
私が反対意見を云うと、千影は逸らした顔を其のままに、視線だけで私の瞳を見つめる。
嘘か、真実か。
見分けようとしている。
そして再び視線を逸らし、わざとらしく溜息を吐いた。
「………嘘吐き……」
…嘘じゃない。
でも、決して寒くは無い。
熱い。
胸が。
顔が。
でも、それでもね…
「嘘でも、千影に触れてたいわ」
そう云った瞬間、胸が押さえ付けられるような切なさを感じた。
気付けば、私は真顔になっていた。
「千影、私…」
ダメだ。
そう思った時には止めようがなかった。
泣いたりしてはダメだ。
でも、云えない。
云えないなんて。
千影の影には云えた言葉が云えない。
今更、如何して?
悔しい。
悔しい!
私は千影を解放し、顔を隠す。
止められはせずとも、精一杯悪足掻きをした。
だけどやはり止められない。
止められない泪は手の平を熱く濡らした。
「咲耶……くん……?」
突然の事に、状況を理解出来ていない千影は、私の顔を覗き込もうとした。
ダメ!
嫌!
見ないで!
触らないで!
全ての叫びは心の中で反響した。
例え心の中で大きく叫んでも、其れが聲となる事は無かった。
だから、私は逃げた。
顔を背け、そして立ち上がって廊下へと続く扉へ駆ける。
今ならまだ、泪は見られていない。
此のままなら、遣る瀬無さの前に崩れたプライドも、明日になれば立ち直れる。
明日からまた今日の分を再スタートさせれば良い。
だから、今は…逃げさせて。
只管懇願した。
泪を見られたら、私はどんなに壊れるか分からないから。
「待って!」
背後で千影が珍しく大きな聲を出した。
だけど其れでも私は止まらなかった。
廊下へ続く扉を開き、部屋から飛び出そうとした瞬間に、千影の手が私の腕を掴んだ。
振り払おうとしたけれど、何故か力が入らず、私は無理矢理振り向かされた。
私の懇願は誰にも届かなかった。
「あっ………」
私の表情を見た瞬間、千影はそう口から漏らした。
そして、少し遅れて気まずそうな顔をしたのが、泪でぼやけた視界に映る。
千影の手の力が緩み、私の腕を放す。
私は再び逃げ、玄関へと辿り着いた。
「っく…」
一人になれた安堵感から堪えていた聲を、漏らす。
そして、一人になった孤独感から、其れは嗚咽へと姿を変えた。
「ひっく……うぅっ……」
私は其の場に崩れ落ちた。
やがて、嗚咽が慟哭へと変わろうとした時。
私の躰は背後から抱き締められた。
其れが誰かなんて分かっている。
「如何してそうやって……私の前では泣いてくれないんだい……」
千影は私の肩周りを抱き締めていた。
だから、抵抗する事はほぼ不可能。
唯一出来る身体を捻る行動をしても、千影は私を抱き締めていた。
「嫌よ…嫌、放して……今はっ…一人に、して…」
私は泣いた。
そう云う一瞬でも泪を止めたかったが、止まらなかった。
其の所為で、聲が酷く震える。
其れがまた私に無力感を味わわせ、泪を流させる。
「嫌だ………君を一人には出来ない……」
千影はそう云い、一旦私を放した。
だけど今の私には、咄嗟に逃げる事も出来ない。
ただ、泣いていた。
そんな私の正面に、千影は立膝でしゃがむ。
そして千影の手の平が私の頬を優しく包んだ。
とても、温かい。
温かさはまた、私に泪を流させた。
「泣いている君を……一人になんて出来ないよ………」
千影は云い終え、左手の人差し指で私の右目から伝った泪を拭う。
そして、泪で濡れて冷たくなった左頬を。
左目から流れた流れた熱い泪を。
千影は舌で舐め取る。
「あ……あぁっ……」
私は喘ぐ聲を漏らし、頬に感じる千影の舌の感触から、息苦しくなる程の切なさに打ち震えた。
両手は千影の鎖骨から肩にかけての範囲を、何度も這うように撫で、時には衣服を強く握った。
やがて、頬から千影の舌が離れる。
私は瞬間的に全身の力が抜け、千影に寄り掛かってしまった。
千影は其れを受け止め、私を見つめる。
私も、千影を見つめていた。
「咲耶くん………此の味を……私も君と共有したい……だから……泪を隠さないでくれ……」
「ちか……げ…」
如何して。
如何して千影はそんな事を、こんなにも綺麗に云い、そして、してしまうのだろう。
其れに引き換え私は…
「千影……私、千影をっ…千影のことっ…!」
私はもう一度云おうとした。
自分の気持ちを云わない事は、プライドは崩れた後もまだ許さなかった。
だけど。
だけど、やはり此の先の言葉を云う事は出来なかった。
愕然とする私を見て、千影は困りながらも、私を励ます為に微笑ってくれた。
「……無理はしなくて良いよ………君の気持ちは……伝わっているから……」
何処かで聞いた台詞。
この場面になったら云おうと、何度も考えて練った言葉。
其れは私が云いたいんじゃなかったのかもしれない。
千影にこそ、云って欲しい言葉だったのかもしれない。
私達は二人で暫らく見つめ合う。
そして、お互いに相手の名前を呼ぶ。
「千影……」
「咲耶くん……」
私と千影の口唇は、其れがあるべき形であったかのように、重なった。
夢のような私達のあるべき形は、現実にあるべき一人ずつの口唇に戻る。
そんな時、此の言葉は自然に私の口から出て来た。
夢ではないのに、云えた。
「愛しているわ…千影」





FIN


【後書】
咲耶が攻めているのか受けているのか分からないですね。
でも、私は咲耶の中の脆さが好きです。そして、千影の強さが好きです。
きっとこの話の後、咲耶はもう自分のペースを取り戻して、千影を困惑や動揺させている事でしょう。
また、お泊りですから当然色々してるのでしょう。ご想像にお任せしますけれど。
泄璃さんから10000HITのキリ番にてリクエストしていただきました。

     

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